6月12日(日) 礼拝メッセージ要旨
「主の恵みを告げるために」 ルカの福音書4章14~30節
主イエスの公生涯は、ガリラヤから始まりました。主イエスは御霊の力を帯びて、ガリラヤに行き(ルカ4:14)神の国の福音を宣べ伝えられると(マルコ1:14)、その評判は周りの地方全体に広まり、全ての人々の尊敬を受けられました。まさに「ガリラヤの春」のように花咲き、実をつけていったのです。ところが、ご自分のお育ちになられたナザレに行かれますと、その評判と評価は一変するのです。主イエスはいつものとおり会堂に入り、聖書を朗読し、話し始められました。人々は主イエスをほめ、その口から出て来る恵みのことばに驚きました。(ルカ4:22)そしてつぶやくのです。「この人はヨセフの子ではないか。」(ルカ4:22)われわれのよく知っている大工の子がなぜ、神の恵みのことばを語ることができるのか。なぜ今、そのような権威をもって神の救いを告げることができるのかと。たった一枚のレッテル「この人はヨセフの子ではないか」という評価が、「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現した。」(ルカ4:21)にもかかわらず、恵みの実現を押しやり、ナザレの人々の心の中に実を結ぶことはありませんでした。人間の心は複雑です。ナザレの人々は主イエスの説教をほめ、喜んで聞いたのです。主イエスのナザレでの生き方や生活にいかなる言行不一致も指摘することはできませんでした。しかし主イエスの「大工の子」という低い姿につまずいたのです。そこで主イエスは言われました。「どんな預言者も、自分の故郷では歓迎されないものです。」と。このことから私たちは、主イエス・キリストを真に受け入れるということは、あの馬小屋にお生まれになり、私たちと同じように試みられた主イエスの低さを受け入れるということであり、その主イエスの語られるみことばを今日、この時、私たちが受け入れることにより、恵みと救いが実現するということであります。今日、私たちは自由に聖書を読み、礼拝のために集まることが出来ます。しかし、自分に与えられている恵みと神のあわれみは今この時なのだということを覚えたいと思います。『神の恵みをむだにうけないようにしてください。神は言われます。「わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。』(コリント人への手紙第二6章1~2節)