5月7日(日) 礼拝メッセージ要旨
「飢饉がある時」 創世記12章10-20節
本日の本文では約束の地であるカナンについたアブラハムたちに激しい飢饉という大きな試練が訪れました。神様からは「あなたの子孫に、この地を与える」という約束をも与えられましたが、現実は全くそうでなく、よりによって激しい飢饉までもあったのです。それでアブラハムはしばらくの間、カナンの地から離れてエジプトに行くことにしました。その決定の過程の中で、アブラハムは先ず神様に祈り、その助けをと導きを求めることが当然あるべきでした。しかし、本文を見ますと、そのような姿は何処にもありません。カナンの地から離れてエジプトに行くという信仰的妥協の中で人間的な方法を選んだのです。
そして飢饉を避けてエジプトに行くことにしたことによって、より大きな問題が起こりました。それは、サラの美しさによってエジプトの高官たちがサラをパロの妻に推薦し、パロはサラを自分の妻にしようとした事でした。この時、自分の命を心配したアブラハムは、妻であるサラを妹と言うことにしていましたが、事実ではない事実をもってその問題を解決しようとしたのです。しかし、それによって問題は解決されず、どうにもこうにもならない状況に陥ってしまったのです。
そのような時、神様が現れて助けて下さいました。神様はアブラハムが過ちを犯してしまったにも関わらず、アブラハムを助けてくださり、大きな問題を解決して下さいました。そして再びカナンの地に導いて下さいました。時には、私たちの信仰の歩みの中で飢饉のような苦難や試練があるかも知れません。そんな時に私たちは、先ず神様のことを覚えて助けを求めなければなりません。そして、たとえ、私たちが過ちを犯しても私たちを助けて下さり、守り導いて下さる神様を覚えて、その神様の御前に祈り求める者になりたいと思います。