5月6日(日) 礼拝メッセージ要旨
「人は何によって生きるのか」 創世記2章4~15節
創世記1章から11章までの箇所は、現代の私たちにとって自分と自分の生きている時代を理解するうえで、聖書の中では最も大切な箇所と言えます。なぜなら、これらの章において、人間の存在について、人間の生きる目的について、そして人間が死ぬということ、結婚と家庭について、働くことと余暇について、技術社会と情報化社会の問題などが、すでに取り扱われているからです。創世記が人間について述べている言葉は「神は人をご自身のかたちに創造された。」(創世記1:27)そして「地を従えよ。…すべての生き物を支配せよ。」(創世記1:28)と命じられました。「神である主は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は、生きものとなった。」(創世記2:7))さらに「神である主は、人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、そこを守らせた。」(創世記2:15)とあります。これらの聖書の言葉は、神が人間を他の被造物とは違って、特別な仕方で造られたことを意味しています。「いのちの息」を吹き込まれ、人間は生きたものとして存在し、世界のあらゆるものを支配し、それを注意深く管理する責任を神から託されたのです。さらに神が造られた大地は、それを耕し守る者がいなければ、豊かな実りをもたらすことは出来ません。人はそのために大地を耕し守るという、大事な責任を担う存在として造られたのです。こうしてエデンの園は、神とすべての被造物と人間が共に交流する舞台となります。その中心に人間が喜びをもって働くということが位置付けられているのです。人間は喜んで労働にいそしみ、自由に園を耕し、人間として生きる実感をもって、自己実現を目指していくのです。一方で神が7日目に休むよう人間に命じられたのは、労働から解放されて自由な時間を持つことの中で、安息日つまり礼拝に於いて神の御前で自分を取り戻し、自分と世界とを見つめ直し、本当の自分自身に帰ることにあるのです。人間は神のために働くことと、神と共に憩うことを求められているのです。世界の創造のみ業のなかで、人間は耕す仕事と共に、憩う時を、神は人間にお与えになったのです。「静まって、私こそ神であることを知れ。」(詩編46:10)