5月18日(日) 礼拝メッセージ要旨
「主イエスの低みに立つ」 ルカの福音書14章7~11節
この主イエスのたとえ話は、遠慮ということを心得なさいという、単なる食卓における礼儀作法のひとつとして語られているのでは勿論ありません。結婚式の披露宴で、自分をよりよく見せるためのマナーが語られているのでもありません。もしそうだとしますと、「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」(ルカ14:11)の意味が、わからなくなります。主イエスがここで求めておられるのは、真実に低くなることです。主イエスは「人の子は仕えられるためではなく、かえって仕えるため」(マタイ20:28)に来られたことを強調されたのです。「自分を低くする」ということの説明が、この主イエスご自身のお言葉によって、よく表わされていると思います。仕える者だけが知っている苦しみ、身を低くしたところに見えてくる苦しみを背負うという、主イエスの姿勢の低さが、このお言葉の中に語られているのです。この仕える者「しもべ」として生きられた主イエスの姿、これが地上での主イエスのご生涯を貫く姿勢でありました。主イエスが「自分を低くする者は高くされる」と言われるとき、「私が立っているこの低みに立ちなさい。」と招いておられる言葉なのです。その主イエスの低みに立った時に、そこに神の憐れみの高さ、恵みの深さ、愛の広さが見えてくるのです。主イエスが「低くされる者が、高くされる。」と言われる時、それはこの神の憐れみ、恵み、愛の高さにおいてであるということなのです。それゆえ、今主イエスが求めておられるのは、ご自分が身をもって示して下さり、ご自身がそこに立って、その場所を示して下さる低みに立つことであります。それは主イエスの救いの恵み、罪の赦しという神の憐れみの席に招かれるということであり、そのことだけが自分を低くするということなのです。それ以外のいかなることも、主イエスは私たちに求めておられないのです。