4月3日(日) 礼拝メッセージ要旨
「憐れみ深い者」 マタイの福音書5章7節
本日は山上の説教の中で、五つ目の憐れみ深い者の祝福です。今まで続けて強調されたのは霊的な事であり神の民として現れる特徴であるということでした。本日の本文も、今まで説明して来た流れの中で理解しなければなりません。即ち、神さまの御前で、正しく自分の姿を認識するようになるとその心の貧しさを知るようになり、そのような自分の姿を悲しむようになります。そのような人は、神さまの御前で柔和で義に飢え渇いている憐れみ深い者となるのです。
それでは「憐れみ深い者」とはどういう者でしょうか。それは、他の人をかわいそうに思って、その人の問題を解決してあげたいという願いを助けてあげる人のことです。即ち、相手をかわいそうに思う心と、それに従って動く行為が合わされた事です。ただ思いだけという事ではありません。もし、自分の助けを必要とする人がいれば、その人をかわいそうに思う心を共に、実際にその人の必要を満たしてあげることです。涙が流れるほどに悲しみながらも実際に何もしなければ、それは憐れみ深い者ではありません。この「憐れみ深い者」について良く教えているのが、ルカの福音書10章に記されている「良きサマリヤ人」の例え話です。その例え話で、サマリヤ人は大変な目にあった人をかわいそうに思って、自分の持っているものやお金、時間などを使って彼を助けてあげたのです。そして「憐れみ深さ」ということを私たちに完璧に教えてくれるのは、神さまが御子キリストをこの世に送って下さった事です。神さまは罪に陥っていた人間の悲惨さ、その苦しみと嘆きを聞かれました。そしてそのままご覧になっただけではなく、キリストをこの地に送って下さり、キリストを通して救いを成し遂げて下さったのです。
私たちはその神様の憐れみ深さによって救われて神さまの子どもとなったのです。そしてその神さまから頂いた憐れみで心を満たされた者です。神さまが私たちに示して下さったその憐れみ深さを覚えて、その神さまの憐れみを証しして生きて行きたいと思います。