4月1日(日) 受難週礼拝メッセージ要旨
「記念の喜びの食卓」 ルカの福音書22章14~23節
ルカの福音書が書き記す「最後の晩餐」には、主イエスの熱い思いが色濃く描かれております。それは、まず主イエスが食卓につかれたということに見られます。(ルカ22:14)この食卓は、主イエスが心を込めて準備して下さいました。その食卓にまず主イエスが座られ、そこに一つの中心、一つの座標軸が生まれました。続いてその傍らに使徒たちそれぞれが座るのです。主を中心にして座る。そこで自分の位置も定まります。自分がこの主イエスと、どういう関わりにあるかということが、はっきり知らされるのです。さらに15節の主イエスの言葉に、この最後の晩餐に対する思いの強さを感じます。「あなたがたと一緒に、この過越しの食事をすることをどんなに望んでいたことか。」この「どんなに望んでいたことか」という言葉は、過越しの食事をしたいという、抑えることが出来ない主イエスの切なる願いを現す言葉です。そこで聖餐に預かる私たちに、改めて問われますことは、どれだけ聖餐式に預かる恵みを大切に、待ち望んでいるであろうかということです。主イエスが切に望まれたほどの願いに衝き動かされてここに集まっているであろうか。聖餐式はそのような主の熱い思いに根ざしていることを、忘れてはならないのです。それはまた、聖餐を通して、私たち自身の目で見、耳で聴き、手で触れることが出来るように、イエス・キリストという姿を通して、私たちに近づこうとされる神の姿でもあります。さらに聖餐式は、自由解放の記念の喜びの食卓であります。私たちは「最後の晩餐」と言いますが、しかし、主イエスは、「この過越しの食事」と呼んでおられます。(ルカ22:15)かってイスラエルの民がエジプトで奴隷の生活に苦しんでいた時、指導者モーセを与えて、神はご自身の民をエジプトから連れ出されたことを、記念とし守り行う行事でした。主イエスは間もなく十字架で死なれます。しかしその事によって、この過越しの食事が、今まで知ることがなかった真の自由をもたらす、記念の喜びの食事となります。これが主イエスの聖餐におけるご意思でありました。「これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。」「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。」(ルカ22:19~20)この聖餐において、イエスの死を体にまとっている私たちは、キリストの体として、お互いに結ばれています。従って、私たちがどのように生き、死ぬかという違いはあっても、イエス・キリストにあって死ぬことの幸いを分かち合うことができます。私たちは自分一人で死んで逝くのではないのです。キリストと共に死に逝くのみならず、私と一緒に祈りに合わせている兄弟姉妹と共に死に逝くのです。そのことを主イエスは、十字架の死を前にして、この聖餐を通して教えて下さったのです。