3月9日礼拝メッセージ要旨 朴柱炫(パク・チュウヒョン)先生
「井戸のそばの女のように」 ヨハネの福音書4章13~14節
ある日、イエス様はユダヤを去って、ガリラヤに行きました。しかし、聖書には「サマリヤを通って行かなければならなかった」と書いています。当時のユダヤ人はサマリヤ人を犬のように考え、差別したので、彼らと会うことは徹底的に避けました。ですから、エルサレムへ行くためにはサマリヤを通る道が最寄りの道であるにも関わらず、遠回りをするベレヤを通って行く道を使いました。 ですから、普通のユダヤ人であれば絶対行かない道をイエス様は意図的に入りました。なぜでしょうか。その理由はこの井戸のそばで出会うサマリヤの女のためでした。誰も関心を持ってないし、他の人から批難と差別を受けているし、人生がめちゃくちゃになった一人の女のためにイエス様は砂漠の暑い道をひたすら歩いてこの町に来られました。イエス様は多くの人々が待っている大きな町に行かなかったです。 そうです。だれも目には留めない小さな町のサマリヤの女にあうために来られるイエス様は今日も、だれも目には留めない小さな私たちに出会うために来られるのです。どんなに惨めで、問題だらけであるとかは関係なく、イエス様が来てくださるのです。神様の御心は私たちに注がれているのです。それが福音です。 イエス様はもっと素敵な人で何か出来る人より、私たちみたいな平凡で惨めな人に関心があるのです。あまり役に立たない者を愛してくださるのです。一方的な愛を持って、井戸のそばで出会ったサマリヤの女を愛したイエス様の愛は、私たちにもそのように愛しています。私たちはその一方的な愛で招かれ、今、ここにいるのです。 今日もイエス様は私たちに来られます。そして、ここに真理があり、命があり、永遠の命の泉があると招いてくださいます。イエス様は私たちに対して希望を持っています。イエス様は決して私たちを諦めることはありません。むしろ、期待しています。皆さん、そのような暖かいイエス様のお招きに答えませんか。