礼拝メッセージ

3月4日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「見よ このりっぱな信仰を」         ルカの福音書7章1~10節

「このようなりっぱな信仰は、イスラエルの中にも見たことがありません。」(ルカ7:9)という本日の言葉は「今ここに、私が探し求めていた信仰があった。異邦人にそれを発見した。」という主イエスの驚きの言葉でした。主イエスをこれほど感嘆させた信仰の持ち主が、ユダヤ社会に生きていた異邦人百人隊長でありました。ユダヤ人達から見れば、彼は選びの民、信仰の民ではありませんでした。しかし、その壁を越えて、この百人隊長の信仰が、主イエスによって見出されたのです。では主イエスによって光があてられた百人隊長の信仰とは、どのような信仰だったのでしょうか。第一にそれは、一人の人間として、人の痛みを感ずる心を持っていたということです。彼は百人隊長としての地位、権威を捨てて、ただ一人の人間として自分の部下の痛み、苦しみを受け止め、その思いが彼を主イエスのもとに向かわせたのです。第二に彼は、主イエスの全き権威に対して、従う心を持っていたということです。百人隊長は主イエスに来て頂きたいと願いました。それ以外に救いはないからです。しかし同時に彼が認めざるを得ないのは、主イエスという方が、自分が領主ヘロデ・アンティパスの権威のもとに立っているよりも、遥かに確かな、大きな神の権威のもとに生きておられるということでした。だから自分には主イエスに家に入って頂くこともできないほどに、自分にはその資格がないのだと、へりくだって主イエスを迎えようとしたのです。第三に彼は主イエスのお言葉に絶対的な信仰を寄せました。「ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは必ずいやされます。」(ルカ7:7)この物語の中心に位置する言葉です。それは一言でいえば主イエスの言葉への信頼です。言葉は力であります。しかし、言葉に信頼がなければ、それは力とはなりません。百人隊長は自分の軍隊の経験から、言葉(命令)が兵を動かすことを知っておりました。一方で彼は自分の言葉の限界も知っておりました。自分には「行け」「来い」「これをせよ」という言葉は言えたとしても「生きよ」という言葉は言えなかったのです。主イエスが語られる言葉には、自分の言葉にはない、いのちを左右する力があり、私ができることは、その主イエスの言葉を信じて、死にかけている自分の僕を、この主イエスの言葉のもとに置く以外にないのだと、百人隊長は主イエスの言葉に、絶対的な信頼を寄せたのです。主イエスは、ここに自分が求めてきた真実の信仰と出会い、驚かれたのです。そして主イエスはこの見事な信仰へと、私どもを招かれるのです。誰も主イエスを呼び寄せる資格などありません。しかし「イエスは、彼らといっしょに行かれた。」(ルカ7:6)のです。私どものところに行く決意をされた主イエス。この低き主イエスのお姿に打たれて私どもは「わたしのような者にまで」という思いの中で「主よお言葉をください。」と言うことができるのです。


礼拝メッセージ要旨一覧はこちら