3月25日(日) 礼拝メッセージ要旨
「一番小さい者でいいのです」 ルカの福音書7章24~35節
教会はいつの時代もこの世に在って、この世に向かって宣教しなくてはなりません。その語り告げるべきこの世とは、どのような世の中なのでしょうか?イエスは、それを市場にすわった子供たちになぞらえております。子供たちは市場で初めは結婚式のような祝い事の遊びを、次に葬式ごっこをします。しかしどちらの遊びも、誰にも相手にされず不平を並べています。(ルカ7:32)イエスが、市場で遊んでいる子供たちに似ていると言われた「この時代の人々」「今の時代の人々」とは、「神の自分たちに対するみこころを拒んだ、パリサイ人、律法学者のような人々のことです」(ルカ7:30)と言われます。何故彼らが、市場の子供たちに似ているのでしょうか。それは彼らが自分勝手であり、自分の思い通りにならないと怒り、また彼らはよく気が変わり、確固たる意見や考えを持っておらず、子供たちの遊びのように、真剣に求めようとしない点にあると言われます。ですからイエスが待ちに待った、来るべき救い主であり、新しい恵みの時が訪れていることが分からないのです。このような時代に向かって、教会は伝道し、福音を伝えなければならないのです。その使命を果たすために、「この時代」に出て行こうとしている私たちをイエスは「ヨハネよりもすぐれた人は、ひとりもいません。しかし、神の国で一番小さい者でも、彼よりすぐれています。」(ルカ7:28)と呼んで下さり、送り出して下さるのです。何故私たちは、パプテスマのヨハネより勝れているのでしょうか。それはヨハネの生きた時代と私たちが生きる時代の違いにあります。ヨハネの時までは、預言と約束の期間でありました。しかし、ヨハネ以後は神の国の訪れの時代であります。そのためにメシア到来の予告をしていたにすぎない預言者や、メシヤの訪れの道備えをしたヨハネよりも、現に訪れている神の国の福音を宣べ伝える私たちの方が、より大いなる者なのです。ヨハネはキリストを指差した人です。ナザレの大工イエスの中に神の子の姿を見たのです。旧約の預言者がこぞって待望したキリストの姿をイエスの中に見た人でありました。しかし、このキリストを信じて神の子とされ、神の国に生きる者とされた私たちと比べる時、ヨハネはキリストを指差した人、私たちはキリストを我がうちに受けている者、キリストと共に在る者、そこに全くの質の違いがあるのです。キリストが私の中にいて下さるという経験に立つ者、これが小さいといえども神の国にある者の姿です。そこに旧約最後の預言者たるヨハネの持ち得なかった、すばらしい神の扱いがあるのです。そこが「神の国で最も小さい者も、彼よりは大きい」と言われるところです。そんな大きな神の扱いの中に私たちは置かれているのです。だから神の国で最も小さい者、それが私であってもいいのです。一番小さい者でいいのです。それでさえ、こんなすばらしい神の扱いの中に置かれている。そのことをもう一度はっきりと受け取りましょう。