3月24日(日) 礼拝メッセージ要旨
「生きる意味の不況」 ルカの福音書18章18~25節
今私たちは、「生きる意味の不況」と言われる時代に生きております。それなりの豊かさの中に生まれ育ち、紙も鉛筆も絵具、パソコン、テレビ、車もあります。道具はふんだんにあっても、それを使って夢を描くことができない社会になっております。それは「生きる意味」が見えないということでもあるのです。若者たちは夢が描けず、生きる活力も失われ、いつも疲れているように見えます。 本日の聖書に登場する若き役人も、生きる意味を求めて主イエスのところにやってきました。彼の場合、地位や富にも恵まれているという状況にありながら「何がまだ欠けているのでしょうか。」(マタイ19:20)と主イエスに問うのです。彼は自分の人生を支える確かな拠り所を求めていたと思われます。この青年は礼儀正しく、小さい時から神の戒めを守り、今の生活に溺れることなく、役人でありながら権力の座に執着することなく、「今」ではなく、「永遠」を思って生きるために、「どんな良いことをしたらよいでしょうか」と主イエスに教えを乞うのです。この主イエスの前に立つということは、その人の本当の姿があらわになることであり、世間的には申し分のない人物であったとしても、主イエスが問題にされるのは、心の奥底にある思い、願い、動機です。人の目から隠されているその部分です。主イエスは彼の問題点を見抜かれます。彼は律法を守っているという自信から、行いによって救われようとする思いと、自分の富に救いの根拠を置いていたのです。この彼に向かって主イエスは決定的な言葉をかけられます。「もしあなたの主張どおり、あなたがほんとうに隣人を自分と同じように愛しているなら、あなたは自分の持ち物を売り払い、貧しい人たちに与えることができるはずです。だからそれを実践しなさい。」そして「その上で、わたしについて来なさい。」(ルカ18:22)主イエスは、この問いかけをとおして、彼が自分の無力さと罪深さに絶望するように導かれたのです。ところが彼は非常に悲しんで、主イエスの前から去って行きます。その後ろ姿を主イエスは見つめ、いつくしみの愛を注がれるのです。(マルコ10:21)