3月20日(日) 礼拝メッセージ要旨
「民衆の中に立つキリスト」 ルカの福音書3章21~22節
3月17日は東北、関東大震災の救援物資の整理、仕分、搬送の奉仕に参加することが出来ました。被災地へ出発するトラックを見送りながら、私の中で、津波のように押し寄せ、地鳴のように響く主イエスのことばがありました。「あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気したとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。」すると、その正しい人たちは、答えて言います。「主よ。いつ私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べるものを差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊らせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたの牢におられるのを見て、おたずねしましたか。」すると、王は彼らに答えて言います。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。」(マタイ25:35~40)今主イエスは、東北・関東大震災で被災された避難民の一人として、援助を受ける人々の中に自らのお姿を置かれ、私たちの傍らに立っておられるのです。この民衆と共に在る主イエスの原初の姿を、まさに今日のルカによる福音書3章21節の洗礼の場面に見ることが出来ます。民衆がこぞって洗礼を受ける列の中に主イエスもおられる。罪のない神の御子が、罪人の間にまじっておられるのです。なぜ、罪のない神の子が民衆の直中に民衆と共に居られるのでしょうか。それは「インマヌエル、神われらと共にいます」そのことが明らかになるためでした。それはまた「まことに、彼は私たちの病いを負い、私たちの痛みをになった。」というイザヤ書53章が描く、「苦難のしもべ」の姿が実現したことをあらわしています。罪のない主イエスが、罪の赦しの洗礼を受けられ、私たちの罪を背負って下さったのであります。それは今から進もうとされる主イエスの姿でもあります。後に「わたしには受けなければならないバプテスマがある。それがなしとげられるまではどんなに苦しむことでしょう。」(ルカ12:50)と言われたことばが十字架を指しているようにヨルダン川の洗礼は、この時すでに苦しみと受難のメシヤの道を指し示していたのです。その「苦難のしもべ」キリストは「私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」(ヘブル4章15節)そして、今苦難の直中に在る東日本の大震災の被災者の中に立っておられます。その小さきキリストのひとりひとりに、私たちは何をすることが出来るのでしょうか。そのことが今私たちに問われていることなのです。