3月13日(日) 礼拝メッセージ要旨
「人の心の弱さ」 ルカの福音書3章18~20節
「人は生きたように死んでいきます。」。ホスピス医の誰もが語る言葉です。多くの死を看取った者の実感のこもった言葉です。 ルカの福音書は、洗礼者ヨハネの死をわずか二節で(ルカ3:19~20)簡潔にまとめます。その死はキリストの先駆者としての使命に生きた、ヨハネらしい死でありました。ヨハネは言葉をもってキリストを告げ知らせただけでなく、自らの死をもってキリストを指し示したのです。このヨハネの受難死とキリストの受難死にはいくつもの共通点があります。①どちらも時の権力者によって殺されたこと。②埋葬のことが記されていること。③「正しい聖なる人」であったのに裁かれ有罪とされたことなどヨハネの死は、人々に救いをもたらすキリストの贖いの死を指し示しています。何故ヨハネが死に、キリストが死ななければならなかったか、それは時代があまりにも暗すぎたからです。ユダヤ人ではなくよそ者で、しかも姦淫を犯す者が領土を支配している。それを直言する者は首を斬られるという、不正、快楽、暴虐が支配している時代。まさにメシヤが来なければならないそのような時代でした。その象徴として、国主ヘロデが示されているのです。このヘロデにヨハネは悔い改めを迫りました。しかし彼はそれを拒否しました。ヘロデには何度か悔い改めの機会が与えられておりました。まず彼の良心です。ヘロデはヨハネの言うことが本当だと思い悩んでいました。(マルコ6:20)まだ悔い改める余力はありました。またヘロデは主イエスを受け入れる機会がありました。彼は主イエスと十字架におかかりになる最後の日に出会いました。(ルカ23:7~11)しかし彼は権力の座から下りることが出来ず、罪に罪を上塗りし、破滅の道へと限りなく落ちていったのです。ヘロデにとって、主イエスの存在は立ち直る最後のきっかけでありましたが、彼はその機会を永遠に失いました。ですから主イエスは私たちに対して「ヘロデのパン種に十分気をつけなさい。」(マルコ8:15)と警告するのです。「ヘロデのパン種」それは、悔い改めない心。正しい神の声を閉じ込めてしまうこと。どこまでも自分を守り、いろんな理由をつけて自分をかばってしまう在り方です。そのヘロデの傾向が私たちのうちにも潜んでいるのです。そのような弱さを私たちは持っているのです。そのことに注意しなさいと主イエスは警告されるのです。ここで同じ権力者の立場で、同じ罪を犯したダビデのことを思い起こしてみましょう。すべての悔い改めの祈りのうちで、最も偉大なものとされている詩編51篇でダビデは、罪の告白と神の赦しを求めました。罪の重荷に苦しむ者は、この詩編によって恵みの御座に導かれてきました。ダビデは私たちに、聖徒とは悔い改める罪人であり、悪しき者とは、自分を神の憐れみに委ねることを拒む罪人であると告げております。自分の弱さを認めて神に委ねる者でありたいと願います。