3月11日(日) 礼拝メッセージ要旨
「もう、泣かなくてもよい」 ルカの福音書7章11~17節
「泣かなくてもよい。」(ルカ7:13) 主イエスは、ひとり息子を失い嘆き悲しむ母親にこの言葉を語りかけられます。「泣かなくてもよい。」これは慰めの言葉です。込みあげてくる悲しみの心に、語りかけられた主イエスの言葉です。私どもはこのような死の悲しみに出会う時、何を言っていいのか、言葉を失い、口もろくに聞けない思いで帰ってくるのです。このナインの町の人達も、この母親の悲しみのかたわらに立って、ただ一緒に歩き、涙を流すよりほかなかったのです。そして、この事だけが私たちが出来る精一杯のことなのです。しかし、葬列の人々に向かって、主イエスの真実に力ある言葉がひびき出します。「泣かなくてもよい。」主イエスは母親をじっとご覧になられ、はらわたをゆするような、主の憐れみの思いが、堰を切って溢れ出たのです。「もう泣く必要はないではないか。私がここにいるのだから!」と。地上の旅路には、涙が止まらない時があります。連日報道されております東日本大震災は、今日で一年になりましたが、未だに行方のわかない方々を含め20000人近くの愛する命が失われ、その悲しみの姿に胸が痛みます。それらの人達に誰が「泣かなくてもよい。」などと言えるでしょうか。しかし主イエスは違います。主は死の力が大手を振って、好き勝手なことをして、一人の母親を悲しませていることを許されないのです。「青年よ、あなたに言う、起きなさい。」と声をかけられ、死から命の世界へと、引き戻してしまわれたのです。主イエスが人となり、この地上を歩まれたのは、愛する者を奪い去る死の悲しみを引き受け、死の悲しみを打ち砕くためでした。そのために死に勝利し、三日目に蘇られました。「泣かなくてもよい。」という言葉は、そのお方の言葉なのです。そして「もう泣かなくてもよい。私はここにいる。」と泣かなくてもいいようにされた主イエスは、私どもに泣くなと言われるのです。ですから私どもも、悲しみのただ中で、悲しみを分かち合う者とともに「もう泣かなくてもよい。」という言葉を確信をもって語ることが出来るのです。なぜならこの言葉を私の言葉としてではなく「主イエス・キリストの言葉」として語るからです。「キリストの言葉」そのものを語るのです。だから「泣かなくてもよい。」という主イエスの言葉は、私どもが愛する者を失った時ですら、はっきり語ってよいのです。それは私どもが死に勝利された主イエス・キリストの言葉の本当の力を知らされているからです。いつも覚えましょう。キリストが私たちのために死なれ、蘇られたのは、私たちが望みなき人々のように、泣き悲しむことのないためであることを。死別した者と天において再会する慰めがこの主イエスにおいて約束されていることを。