3月1日(日) 礼拝メッセージ要旨
「しるしと不思議」 ヨハネの福音書4章43‐54節
人間は見ることや聞く事などの感覚を通して何かを知ることに、限界をもっています。幾ら視力が良いと言っても目には見えない小さいものがあります。同じように耳があっても聞く事ができないものもあります。人間の認識の能力には明確な限界があるのです。自分が見ることができないし、聞く事ができない、そして感じることができない世界があるのです。そうであるにもかかわらず、多くの人々は自分の感覚を通して認識できる世界だけを認めようとするところがあります。イエス様は、本日のみことばを通して、そういうものがすべてではない事を教えてくださり、私たちを信仰に導いてくださいます。
イエス様は、ガリラヤに行く途中にサマリヤ地域によって福音を伝えました。そしてイエス様のことばを聞いて信じたサマリヤ人の願いに応じて、サマリヤに二日間泊って本来の目的地であったガリラヤにお向いになりました。そしてイエス様が水をぶどう酒に変えたガリラヤのカナというところに着いた時、カペナウムからきた王室の役員がイエス様のところにやって来ました。彼は、死にかかっている息子を癒してくださることを願って自分と一緒にカペナウムに行くように求めました。しかし、イエス様は彼に対して「しるしと不思議を見ない限り、決して信じない」と語られました。一方、イエス様がそう語られながら彼の息子が直っているとも語ってくださいました。その言葉を聞いた役員は、イエス様のことばを信じて家に帰りました。そして、帰る途中で、家からものに出会って息子が直った事を聞いてその時間を聞いて見たら、イエス様のことばがあった時間を同じだった事を知り、彼と家の者がみな信じるようになったのです。
目に見えるしるしだけを求めることは、真の信仰ではないと聖書は教えています。しるしは人間の目を引いても、完全な信仰を与えることはできません。目に見えるしるしを越えて、イエス様のことばを信じて従うことができるのが信仰をもつ者になりたいと思います。