「悔い改めないなら」 ルカの福音書13章1‐5節
私たちが生きているこの世界では誰も予想出来ない色々な自然災害が起こります。特に日本は地震、洪水、火山、津波等、こんなにも多い震災が一つの国の中で起こるのかと思われるほど、種類もその発生件数も多い国だと思います。日本においては東日本大震災も大変なことでした。海外においては2010年にあったハイチ地震は死者だけでも31万6千人程に及ぶものであって人間の想像を超えた地震災害でした。毎年、世界各地で、そして日本においても色々なところで災害が起きて、それによって多くの人々が命を失い、被害にあった人々は大変な生活をするようになります。私たちはそういうことを聞いてどのように受け入れればよいでしょうか。本日の本文は、災害そのものについて語られたことではありませんが、予想出来なかった事故や災害の話しが出て来ます。
最初の話しは、ガリラヤからエルサレムに来た人々が神殿でいけにえをささげている時、ピラトが送って兵士たちによって殺されたという事です。その残酷な光景をルカは1節で「ピラトがガリラヤ人たちの血をガリラヤ人たちのささげるいけにえに混ぜた」と伝えています。そしてもう一つの事故は、シロアムの塔が倒れて18人の人々が亡くなったという事です。二つのことは、亡くなった本人にとっては予想出来なかったことであり、突然起きたことであります。ところが、こういう事故について当時のユダヤ人たちは、その人に深い罪があって神さまが裁かれたと思っていました。そのように持っている人々にイエスさまは「そうではない。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。」と、それも3節と5節で2回も繰り返して語っておられます。即ち、他人の罪よりも自分自身の罪を省みなさい、そして自分の罪を悔い改めなさい、といことです。こういうイエスさまの教えを通して自分にこそ罪あるものだ、といことを覚えて、悔い改めて私たちに教えて下さる信仰の道を歩んで行きたいと思います。
「キリストにあっての恵み」 コリント人への手紙第一 1章4-9節
このコリント人への手紙はパウロがコリントの教会に送って手紙であって、パウロのコリントでの宣教活動については使徒の働き18章以降に詳しく記されています。コリント地域は、パウロの第2次伝道旅行の中で、非常長い間滞在し、福音を伝えたところです。1か月半位、それもあの有名なアクラとプリスキラ、そしてシラスとテモテまでも、このコリントで一緒に福音を伝えました。異邦の地に、偶像の多いところで苦労し教会を建てたところであって、それほどコリントはパウロにとって特別な意味があります。ところが、このコリント人への手紙第一では、当時コリント教会が抱えていた多くの問題を取り扱います。本日の本文の次、直ぐに分派と分裂の問題について語ります。そして結婚の問題、偶像にささげた食べ物の問題、公の礼拝においての問題、霊的賜物の問題、復活の問題など、その種類や数は他の手紙では見ることが出来ないほど、多様で多いものです。
そのようなコリントの教会を思うパウロの思い、その心はどのようなものだったでしょうか。聞こえて来る色々な噂、問題など、それによってパウロは喜ぶことが出来ない状況であったかもしれません。到底、彼らのことを思って感謝をする、と言うことが出来なかったかもしれません。しかし、そのようなコリントの教会に送る手紙、その最初のことばは、彼らに対する失跡や咎めること、非難することばではありませんでした。本文の4節をご覧になりますと「私は、キリスト・イエスによってあなたがたに与えられた神の恵みのゆえに、あなたがたのことをいつも神に感謝しています。」とありまして、神さまから恵みを覚えて神さまに感謝をささげるパウロです。
私たちがどのような状況におかれているとしても、そしてどんな人に対しても、先ずは自分に与えられた恵みを覚えたいと思います。イエス・キリストにあって私たちに与えられた恵みを覚え、神さまに感謝をし、そこから希望を見出すことが出来るものになりたいと思います。
「時代を見分ける信仰」 ルカの福音書12章54-59節
昔も今も、天気予報は日常生活において非常に重要なことです。特に、今のように寒い季節には天気予報を見て準備しないと大変なことになります。最近はテレビやインターネット、又はスマートフォンなどで現在の地域の天気やその一週間のこともを詳しく分かります。そしてそれも非常に正確なものです。ところが、今日のように科学が発展していなかった時にも、経験を通してある現象がおこると、それを見てこれからの天気がどうなるのか、といことを予測して来ました。
本日の本文でも、イエスさまは当時ユダヤ人たちが良くしていた天気予報、ある自然現象について話されます。そしてその現象を通して天候のことを見分けることが出来るのに、如何して今の時代について見分けることは出来ないのかと問われます。この時、イエスさまが話される「今のこの時代」というのは、御子キリストがこの地上に来られて、神の国を伝え、力をもって奇跡を行なうイエスさまの時代です。即ち、自然のある現象を見てこれからの天候を見分けることが出来るのに、どうして旧約聖書から預言されたメシヤ、そのメシヤとして来た私のことを見ているあなた達は、それを見分けることが出来ないのか、ということです。そして何故、救い主としてこの地上に来た私のことを見ても、あなた達はそれを確かめようともしないのか、ということです。イエス様は色々なところでご自分がキリストであることの証しを示しておられ、ご自分のことを多くの人々に教えてくださいました。そのようなイエスさまを見ても分からない、見分けることが出来ない人々に例え話を通して神さまと和解しなさい、と教えてくださいます。
今、私たちのためにこの地上に来てくださったイエス・キリストを信じ救われなければ、その人を待っているのは最後の審判であり、その結果は牢に投げ込まれることです。まだ、その途中にある時に、私たちの救い主であるイエス・キリストを信じましょう。また、既に信じている方々はその恵みに感謝して生きて行きたいと思います。
「私たちと共にいる神」 出エジプト記3章1-12節
私たちがクリスチャンとしてこの世の中で生きて行く時に、神さまを知らない人々と異なることがありますが、その中でも大切なものは神さまが呼んでくださったという事を覚えて生きて行く事です。本日の本文は、神さまがモーセを呼んでくださる内容ですが、本文を通して私たちを呼んでくださる神さまについて考えて見たいと思います。
先ず、神さまは私たちを呼んで下さり、そのような私たちを通してご自分のご計画を成し遂げてくださいます。ある日、神さまはモーセに不思議な現象を見せてくださり、そんな中でモーセを呼んでくださいます。そして「わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを確かに見、追い使う者の前の彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを知っている。」(出3:7)と、その目的を教えてくださいます。神さまのご計画の中で時が満ちて、エジプトで奴隷の生活をしていたイスラエルの民を、モーセを用いて連れ出そうとなさった事です。その苦しみから救い出そうとされた事です。そのためにモーセを呼んでくださいました。それと同じく、神さまは私たちを通して、私たちを家族や友人等、私たちの周りにいる人々に福音を伝えるために私たちを呼んでくださるのです。そしてそのような私たちを一人でほうっておくのではなく、いつも私たちと共にいてくださいます。本文で神さまはモーセに「わたしはあなたとともにいる。これがあなたのためのしるしである。わたしがあなたを遣わすのだ。あなたが民をエジプトから導き出すとき、あなたがたは、この山で、神に仕えなければならない。」(出3:12)と仰ってくださいます。これ以上大きな力になることはありません。全治全能であられる神さまが共にいてくださる。それによってその人はどんなことも十分に成し遂げることが出来るのです。
私たちを召してくださり、その私たちを通して御救いのご計画を成し遂げてくださる神さまの事を覚えて、どんな状況の中でも神さまの愛を、そして福音をのべ伝えて生きて行きたいと思います。
「火を投げ込むために」 ルカの福音書12章49-53節
本日の本文の内容は、今まで学んで来たイエスさまのお姿から考えて見ますとすぐに理解出来ないかも知れません。それほど、戸惑いを感じさせる内容です。救い主であるイエスさまは旧約の時代から「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」(イザヤ9:6)と賛美されました。このルカの福音書においても、イエスさまのお生まれの時、天の軍勢が現れ「いと高きところには栄光、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」と神さまを賛美致しました。ところが、本日の本文においてイエスさまのご自分について「地に火を投げ込むために」来たと、そして51節では「地に平和を与えるために」ではなく「むしろ、分裂」を与えるために来られると語られます。そして愛の固まりであるはずの家庭においても「父は息子に、息子は父に対抗し、母は娘に、娘は母に対抗し、しゅうとめは嫁に、嫁はしゅうとめに対抗して分かれるようになります。」と仰います。こういうイエスさまの教えの真意は何かといことを考えて見なければならないと思います。
最初に、イエスさまは「地に火を投げ込むために」地に来られたと語られますが、この「火」とは人間の罪をきよめる働きをするものとして「聖霊」と理解出来ます。特にバプテスマのヨハネはイエスさまについて「あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。」と言いました。そしてその聖霊の働きによって与えられるものとは「平和」ではなく「分裂」であり「対抗」です。それは、実は「平和」であるように見るところに「分裂」が与えられ、その分裂があるところに本当の平和を与えてくださるためなのです。火を投げ込んでくださり人間の本当の姿を教えてくださって、その上に本当の平和を与えてくださるイエスさまの事を覚えたいと思います。
「待っておられる神」 イザヤ書30章18-21節
私たちは聖書を通してご自分の民を待っておられる神さまのお姿を見ることが出来ます。本日の本文は、その待っておられる神さまのみこころと帰って来る者に与えられる祝福と恵みがどういうものであるのかが教えられています。本文で神さまはご自分について待っておられると語られます。そして帰って来る者に対して恵みと憐れみをお与えになると語られます。当時、イスラエルは滅んで行く国の中で神さまではなくエジプト等のようなこの世の力に頼り、それに助けを求めました。そのようなイスラエルに対して神さまは帰って来ることを待っておられると語っておられるのです。
そして今日の本文では、そのように待っておられる神さまに帰って来る者に二つのことが約束されています。一つ目は、その人の叫びを聞いてくださり、必ず恵みを与えてくださりすぐ答えてくださるということです。私たちが苦難や苦しみの時に他のものに頼り、他のところから助けを求めることではなく、神さまに叫び祈り求めるなら神さまはそれに必ず答えてくださるということです。そして二つ目は、正しい道に歩むように教えてくださり導いてくださるということです。そのような神さまのことを覚えて、間違った道に入った時、私たちに正しい道を教えてくださる神さまのみことばに従って立ちかえられなければなりません。それを待っておられる神さま、その神さまのみ教えに従って神さま喜ばれる道に歩んで行く者に変えられたいと思います。
私たちに恵みを与えようと待っておられる神さま、その神さまは私たちの叫びを聞いてくださり、必ず答えてくださるお方です。そしていつも私たちが正しい道に歩んで行くこと出来るように教えてくださるお方なのです。このように待っておられる神さまの御前に出て行って、神さまに喜ばれる者として歩んで行きたいと思います。
「労苦の中で喜びを見出す人生」 伝道者の書2章22節~26節
人生には多くの労苦があり、思い煩いがあります。仕事や人間関係、病気や老いること、更には、愛する方との死別、そして自分自身の死。どんなに労苦して得たものも、やがては、すべてを残して死んでいくことになります。このままでは、人生の意味や目的を見出すことができず、しかも、本当の希望、確かな人生の拠り所を見つけ出すことも、難しいかも知れません。
イスラエルの王にまで昇りつめたソロモンは、すべてをむなしいと語りました。しかし、それが彼の人生における結論ではありませんでした。ソロモンは、光なき人生の虚しさから、まことの光を見出したのです。旧約聖書の伝道者の書2章24節には次のように記されています。
「人には、食べたり飲んだりし、自分の労苦に満足を見いだすよりほかに、何も良いことが
ない。これもまた、神の御手によることがわかった。」
ソロモン王は真の神から離れ、いつの間にか自分中心の生き方を歩んでいました。しかし、もう一度、神に目を、心を向けたのです。そこに、自分の人生の目的や意味があることを見出したのです。
私たちの人生や仕事が、常に、自己中心であるならば、或いはまた、私たちが心配することが、自分に何ができたかという事だけなら、ソロモンのように、人生に失望し、虚しさを覚えるでしょう。けれども、もし、私たちの人生や仕事の中心が、天地万物を造り、私たちに命を与えておられる真の神であったのなら、そこには希望があります。なぜなら、神は、私たちの命と働きを、神のご計画のために用いられるからです。
新しい年を迎え、私たちの人生について聖書の御言葉からご一緒に考えたいと思います。神と共に生きる人は、必ずや、労苦の中で喜びを見出す人生を歩むことになることを…。
「喜びの日」 イザヤ書58章13-14節
クリスチャンである私たちは、神さまの民として覚えて記念し、守らなければならない日が多くありますが、その中で主日より大切なことはないと思います。この主日は、旧約時代では安息日であって、神さまはご自分の民に「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。」と命じられました。そしてこの安息日と守らない人々に対しては、出エジプト記31章14節の後半で「これを汚す者は必ず殺されなければならない。この安息中に仕事をする者は、だれでも、その民から断ち切られる。」と、大変厳しく語られました。それほど、神さまの民として大切に命じられているのが安息日でした。そして、この安息日は新約時代においては主日に変わりますが、私たちも同じく主日を守る、或いは主日に教会に集まり神さまに礼拝をささげるということは非常に大切なことなのです。
そのような主日について、本日の本文では、出歩くことをやめ、自分の好むことをせず、旅をせず、自分の好むことを求めず、むだ口を慎みなさい、と仰せられます。また、この日を神さまの聖日として覚え、「喜びの日」と呼び、主の聖日を「はえある日」と呼びなさいと命じられます。そうする者には、主にあっての喜びが与えられ、地の高い所を踏み行かせ、あなたの父ヤコブのゆずりの地であなたを養ってくださることが約束されているのです。神さまはご自分の民に主日を聖く守り尊ぶように命じられ、それに従い守る者には祝福を与えると約束してくださいました。
皆さんにとって、毎週の主日はどのような日でしょうか。本当に、自分の人生の中で喜び、尊ぶ日でしょうか。神さまは、本文でイスラエルの民に素晴らしい約束をしてくださいます。そしてどんな状況の中でも、その日を聖く守り尊びなさい、と命じられます。私たちは、この主の日に神さまに喜ばれる者になりたいと思います。この日こそ、自分の魂に真の安らぎと喜びが与えられる日であることを覚えて、この一年間、毎週神さまの御前に集まり、礼拝をささげる者になりたいと思います。