「右にも左にもそれずに」 ヨシュア記1章1-9節
本日の本文は、イスラエルの偉大な指導者であるモーセの後を継いで、新しく指導者になるヨシュアに神様が励ましを与えて下さる内容です。本文の中で神様はヨシュアに三つの約束をして下くださいます。それは、見放さず見捨てないこととイスラエルの先祖たちに与えると約束してくださった地を継がせてくださること、そしてモーセとともにいてくださったようにともにいてくださることです。神様は、ヨシュアにこのような約束と励ましを与えてくださって、二つのことを命令します。一つは雄々しくあれ強くありなさいということです。そしてもう一つはあなたに命じたすべての律法を守り行ないなさい、ということです。
そして7節で、すべての律法を守り行なうことにおいて「これを離れて右にも左にもそれてはならない」と仰いました。ここで神様はヨシュアに強調しておられることは、律法守りなさいということです。イスラエルの民を導いてカナンの地に入る時、そして入ってからも、モーセを通して教えてくださった律法を守り行ないなさい、ということです。ところが右にも左にもそれてはならないと仰いましたが、それは新しい指導者になるヨシュアにすべての律法を正確に守り、そこから右にも左にもそれない指導者になりなさい、ということです。また、多様な考え方をもっているイスラエルの民を、みんな抱くことが出来る指導者になりなさいということとして取ることが出来ます。
そのために私たちは神様の愛によって満ち溢れ、その愛をもって隣の兄弟姉妹に接して行かなければなりません。それは相手の考え方が自分の考え方と違うことを認め受け入れるためです。そしてもう一つは、自分の考え方だけが正しいという思いを捨てなければなりません。自分が経験したことが正しければ違う経験をした相手も正しいという考え方をもって、相手の考え方をも受け入れなければならないのです。私たちが愛の中で、互いに違うことを尊敬する時、多様な私たちの姿や思いが調和を保ち、共に歩んで行くものになりたいと思います。
「主の祈り」 ルカの福音書11章1-4節
本日の本文は、イエス様が弟子たちに教えて下さった祈り「主の祈り」です。ところが、ルカの福音書の本文を読みながら少し違和感を感じる方もいらっしゃるかも知れません。普通、私たちが良く使う主の祈りはマタイの福音書6章9-13節に記されているものです。それと今日の本文を比べて見ますと、内容も短ければ表現も違います。とは言え、二つの祈りが違うものではありません。祈りの内容を見ますと、最初に呼び掛けがあって、その次に神様のための祈りがあって、最後に私たちのための祈りがありまして、イエス様が教えてくださろうとするものは同じです。
その内容を見て見ますと、最初に「父よ」と書かれています。それは、私たちに神様を父と呼び掛けなさいと教えてくださることです。それは、私たちが神様と父と子の関係の中で祈ることが出来るということです。かつては罪によって神様の御前で自分の身を隠し、神様から離れて、神様に対して敵であった私たちでした。しかし、今はキリストを信じる信仰によってその罪が赦され、神様の子どもとなったのです。ですからその神様からの恵み、測り知れない愛を覚えて、父なる神様を覚えて祈りなさい、と言う事です。
そのような神様の恵みと愛を覚えて祈る時、私たちは自然と神様の御名をほめたたえるようになるのではないでしょうか。ですから、最初の祈りは、神様のための祈りが教えられているのです。そして3節と4節には、私たちの霊肉ための祈りが教えられていますが、それは私たちの弱さを覚えて、神様に頼りつつ生きて行きなさい、と言う事です。私たちは、すぐ神様からの恵みを忘れてしまい、自分の力に頼りがちな者ですが、そんな私たちに神様によって私たちの日々の必要が与えられ、霊的な必要も満たされて、生かされていることを教えてくださいます。この主の祈りを通して神様の恵みを覚えてその御名を賛美し、自分の弱さを覚えて神様だけに頼り、神様から頂いた愛を他人に施して生きるものになりたいと思います。
「必要なこと一つ」 ルカの福音書10章38-42節
本日の本文でエルサレムに向かって旅を続けていたイエス様は、ある村に入られます。そこにはマルタとマリヤの家がありまして、イエス様のことを聞いたマルタはイエス様の一行を自分の家に迎えました。そしてマルタはイエス様と弟子たちにもてなしをするために忙しくしていました。ところが、彼女の妹のマリヤはイエス様の足もとに座って、姉の忙しさは気に掛けずイエス様のお話しを聞いているだけでした。そんな中で、あまりにも忙しく思ったマルタはイエス様のところに行って、自分の状況を話してマリヤに手伝いをするように話してくださいと言いました。
そのようなマルタからの話しに答えて下さったのが41節、42節ですが、この時のイエス様の答えは意外なことでした。ところが、ここで私たちが注意しなければならないことは、決してイエス様はマルタのことを責めたり、非難したりしてないということです。イエス様は、マルタの家についてからマルタがイエス様と弟子たちのために一所懸命にもてなしをし、美味しい食事を準備している姿について何も仰らなかったのです。何故なら、そのようなマルタの姿もイエス様を愛し、イエス様のためにやっていることであるからです。
ところが41節と42節のマルタに対するイエス様の答えを良く見ますと、最初のマルタの姿とは変わっていることが分かります。最初、マルタはイエス様の一行を喜んで迎えました。しかし何時の間にかその喜びは失わってしまい、色々な事を準備しなければならないということから気が落ち着かず、心配して気を使っていたのです。そういうマルタに向かって話してくださったことが「必要なことは、ただ一つだけです。」ということでした。それは色々な事が必要ですが、先ず私の言葉に耳を傾け、それに聞きなさいということです。そこから自分に与えられた真の喜びを覚えて、その喜びの中で奉仕しなければならないということでしょう。私たちも先ず、私たちにしてくださった恵みを覚えて、それを喜ぶ心をもって奉仕するものになりたいと思います。
「一つとなった教会」 使徒の働き4章32-37節
本日の本文は、初期のエルサレム教会の代表的な特徴が見られる内容です。使徒の働き2章でのペテロの説教の後、三千人ほどが弟子に加えられました。また、美しい門での出来事の後は、男の数だけでも五千人ほどの人々がイエス様を信じるようになりました。こんなにも多くの人々が集まるようになったエルサレム教会には、色々な人々が集まっていたでしょう。お金持ちもいれば非常に貧しい人もいるし、ローマの市民もいれば奴隷もいたと思われます。そのように多様な人々が集まって一つの信仰の共同体となったのです。ところがそんなにも多様な人々が集まっていましたが、彼らは「だれひとりその持ち物を自分のものとは言わず、すべてを共有していた」と書かれています。当時、エルサレム教会の信者たちが、自分たちの持ち物を惜しまず、互いに助け合うことが出来た力は何処からだったでしょうか。
その一つ目は、彼らは御霊に満たされていたからです。本日の本文と同じ姿が2章43-47節に書かれています。そしてそれはペンテコステという素晴らしい出来事の一つの結果として考えられます。それと同じく4章31節や33節を見ますと、この時も御霊に満たされ、大きな恵みが注がれていたということが分かります。神様からの大きな恵みと御霊に満たされた彼らは、自分のものを自発的に犠牲にし、互いに助け合う姿を持っていたのです。そして二つ目は、御霊に満たされた結果、多くの信者たちは「心と思いを一つにしていた」のです。本当の家族さえも心を一つにすることは難しい事だと思います。しかし一つの聖霊によって満たされ、その上に恵みが注がれていた多くの信者たちは心と思いを一つにしていたのです。
そこには色々な人々が集まっていました。しかし一つの聖霊によって満たされ、その心に神様の愛が満ちあふれた時、心と思いを一つにすることが出来るのです。私たちも恵みの中で御霊に満たされて、心と思いを一つにしている教会となりたいと思います。
「あなたの隣人とは」 ルカの福音書10章25-37節
本日の本文には、イエス様のところにひとりの律法の専門家が出て来ます。彼はイエス様に永遠のいのちについて質問をしますが、しかし彼の質問の意図は純粋なものではありませんでした。彼の質問は永遠のいのちを得ることが出来ることについてでしたが、実はイエス様がどのように答えられるのかを試そうとして質問したのです。そのような彼の質問に対して、イエス様は律法を持って聞き返しました。その時、彼は律法の専門家らしく、正しく答えることが出来ました。そこで律法の専門家が自分の正しさを示そうとして隣人についての質問をしましたが、その時答えてくださったのが良きサマリヤ人の例え話です。
強盗に襲われて自分の持ち物を全部取られ、半殺しにされたある人がエルサレムからエリコに下って行く道で倒れていました。ちょうどその時、祭司がその道を下って来ましたが、その祭司は彼を見ては反対側を通って過ぎって行きました。また、その後、レビ人が現れましたが、レビ人も祭司と同じように彼を見て反対側を通って過ぎって行ってしまいました。今度はあるサマリヤ人が現れました。そのサマリヤ人は半殺しにされて道で倒れている人を見て可哀そうに思い、彼に近付いて行きました。そして自分からやってあげることが出来るすべてのことをやってあげたのです。旅に必要だった持ち物は勿論、怪我した人のために自分のお金も時間をも惜しまずに使って彼を助けてあげたのです。
この例え話の後、イエス様は律法の専門家に「だれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」と質問されました。そしてこの質問には、隣人とは目の前の助けを必要としている人を助けてあげる人であるということが含まれています。正しい自分を中心としてそんな自分の隣人とは誰なのか、ということではありません。誰かの助けを必要としている人を助けてあげること、それがその人の隣人になるのだ、ということです。良きサマリヤ人と同じように、主の教えを実践する者になりたいと思います。
「罪を悟らせる」 創世記42章1-17節
ヨセフの生涯を簡単に言いますと、夢を通して啓示を受け、その夢によって苦難に出会います。しかしその苦難の中でも神様の不思議な働きと導きによって、その夢はヨセフの人生の中で成就されることを見ることが出来ます。このようなヨセフの夢を理解するのに大切なことは、それは決してヨセフの成功を教えてくれるものではないということです。神様がその夢を成し遂げてくださり、その目的はヨセフを通して彼の家族を救おうとされたことです。ですからヨセフの夢というのは、そういう神様のご計画を見せてくださったことでした。ヨセフが歩んで来た人生を考えて見ますと、クリスチャンである私たちの人生の中でどんな苦しみがあるとしても、私たちに対する神様のご計画は止まることなく神様の導きの中で成し遂げられるということが分かります。
そのようなヨセフの生涯の中で、本日の本文は長い年月がたってからヨセフと兄たちが再び出会う場面です。その時、ヨセフは兄たちを見てすぐ分かりましたが、知らないふりをします。そして全くそうではないのに、兄たちに間者だと濡れ衣を着せます。そのようなヨセフに対して、自分たちは決して間者ではないと切実に説明しました。しかしヨセフは兄たちの話しは聞かないで、兄たちを監禁してしまったのです。ところが、この出来事を通して兄たちは、昔自分たちが犯してしまった罪を思い出し、それが罪だということを悟るようになります。そして似た出来事が繰り返される中で自分たちが犯してしまった罪を認め、告白するようになるのです。
こういう兄たちの姿とは、イエス・キリストの御前で、自分の罪と魂の貧しさを悟らせる頂いた私たちと似ています。自分の罪を悟り、その深さを知る時、そこから私たちに与えられた恵みがどれほど大きなものであるのかが分かります。主の恵みの前で、私たちの罪を悟り、そのすべての罪を赦してくだった驚くばかりの恵みを感謝したいと思います。
「聖霊によって喜ぶ」 ルカの福音書10章21-24節
前回、伝道から帰って来た70人の弟子たちは、大喜びながらイエス様に自分たちの経験したことを話しました。言わば、大興奮の報告会が行なわれたのです。そのような弟子たちに「あなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。」と仰ったイエス様は、実は喜びにあふれておられたのです。本文の21節によりますと、聖霊によって喜びにあふれたイエス様は父なる神様を褒めたたえました。それは、天地の主であられる父なる神様は、人間を救おうとされておられるからでした。
本日の本文でのイエス様の喜びは、とても珍しいことだと思います。というのは、イエス様が泣かれたということは3回位出て来ますが、イエス様が喜ばれたというのは福音書の中ではただ1回です。勿論、喜ばれたということが書かれてなかったとして、イエス様が喜ばれなかったという事ではありません。イエス様が行なって下さった数多くの奇跡、時には死んだものをも生き返してくださいました。そういう素晴らしい出来事が数多くありましたが、本文以外の何処にもイエス様が喜ばれたという記事はありません。しかし、本日の本文には「聖霊によって喜びあふれる」と書かれています。それほどここでのイエス様の喜び、父なる神様が人間を救おうとされることへの喜びは尊いものであるということになります。
そしてその救いがどのようにして私たちに与えられたのか、と言うことについて教えて下さいます。父なる神様が救いに必要な全てのものを御子イエス・キリストにお与えになり、イエス様はそれを知らせようと定めた人々に教えてくださいます。そして昔の預言者や王様たちも見ることが出来なかったことをも見たのです。ですから、私たちに与えられた救いということがどれほど大きなプレゼントであるのかが良く分かります。毎週、救われた民が教会に集まり、神様に礼拝をささげていること、それがどれほど大きな恵みであるのかを良く覚えて、喜びあふれて生きているものになりたいと思います。
「イエス・キリスト以外には」 使徒の働き4章5-12節
ある日、ペテロとヨハネはソロモンの廊で大勢に集まって来た人々に説教をしていました。その時、突然サドカイ人たちがやって来て二人を捕えました。その理由は、自分たちの教えと異なる事を語り、特に十字架で死んでしまったイエスがよみがえったと伝えていたからでした。そして当時ユダヤで最も強い権威をもっていた指導者たちが集まり、彼らを尋問し始めたのです。
その尋問に対してペテロが聖霊に満たされて大胆にイエス様の復活を語り、そのイエス・キリストの他には救いはないと、堂々と答えました。特に12節では「この方以外には、だれによっても救いはありません」と話し、そこに集まっていたユダヤの指導者たちの考え方を真っ向から否定しました。と言うのは、彼らは自ら神の国については自分たちが専門家であり、救いに関しては自分たちが神様の代理人であると思っていたからです。ところが、そういう彼らに向かってペテロは、イエス様以外には救いはないと語ったのでした。
それでは何故ペテロは「この方以外には、だれにも救いはない」と語ることが出来たでしょうか。それは1章から続くペテロの説教を見ると良く分かります。1章からペテロは色々な場面で、色々な人々に対してイエス様の復活について話しました。そして本日の本文でも「あなたがたが十字架につけ、神が死者の中からよみがえらせたナザレイエス・キリスト」と言って、イエス様の復活について話したのです。このように死の力に打ち勝ち、復活されたイエス様のみに真のいのちの救い主であるということです。それを悟り、堅く信じていたペテロはどんな人に対しても、たとえ自分の命をも牛耳ることが出来る人々にも大胆に福音を語ることが出来たのです。ペテロは恐れることなく恐がらず、イエス様の復活について話すことが出来ました。それは聖霊に満たされて、福音に対する確信、堅い信仰をもっていたからです。私たちもその信仰によって生きて行く者になりたいと思います。
「私たちの喜び」 ルカの福音書10書17-20節
本日の本文には、伝道から帰って来た70人の弟子たちが大いに喜び、イエス様に自分たちが経験した素晴らしい出来事について話しをしています。70人の弟子たちは、イエス様に遣わされてしばらくの間、伝道をして帰って来ました。そして彼らは顔に満面の笑みが溢れて喜びをもって帰って来ました。それは、自分たちがイエス様の御名を使ったら悪霊どもが自分たちに服従することを経験したからでした。悪霊が弟子たちの前で震えながら引き下がる、という生まれて初めての経験だったでしょう。その奇跡を経験した弟子たちは大きく興奮して、イエス様に武勇伝を語り始めたのです。
そのような弟子たちの嬉しい報告を聞いたイエス様も、彼らの成果を知っておられました。弟子たちがイエス様の御名によって語ると悪霊どもが服従する、それはまるでサタンがいなずまのように、即ち一瞬に落ちてしまうことであって、イエス様も見ておられたのです。そしてそのようなイエス様のことばは、弟子たちの伝道は、サタンが一瞬に落ちてしまうような力ある伝道であったということだと思います。そういう弟子たちへの褒め言葉と共に、自分たちが行なったことによって高慢にならないように戒めをも与えてくださっておられます。この後続くイエス様のことばを見ますと、伝道の成果による喜びと共に、本当の喜びへの教えが出て来ていたので、そう考えられます。
大いに興奮して喜び、それを話している弟子たちに、イエス様は「ただあなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」と仰いました。悪霊が自分たちに服従するという驚くほどの奇跡より、罪人であってあなたが、罪赦され神様の子どもとなり永遠の命が与えられたことの方がもっと驚くことであるから、それを喜ぶべきだということです。私たちは、その喜びを心に覚えているでしょうか。救われたことを感謝しないで、自分がしたことやしていることによって喜び、そこから良い結果があれば感謝するということはないでしょうか。私たちに与えられた救いの喜びを覚えていつまでも喜びをもって歩んで行きたいと思います。
「夢を見る者」 創世記37章5-11節
聖書の中に夢に関する話しが色々とありますが、その中で私たちが良く知っているのはヨセフの夢であると思います。特に、創世記37章以降、ヨセフの話しが始まりますがヨセフの生涯において夢ということは非常に重要なポイントであって特別に用いられました。その最初に出て来るのが、本文の「ヨセフの夢」です。本文でヨセフは二つの夢を家族に話すことによって、ヨセフは兄たちにますます憎まれるようになり、兄たちは創世記37章19節では「あの夢見る者がやって来る」と言い、その後、商人に売ってしまいます。そして展開されるヨセフの人生は、その夢とは離れた方向に進んで行くように見ます。
そこで、この本文を読む時、聖書での夢をどのように理解すべきかを考えて見る必要があります。本文の二つの夢の内容を、13年も経ってからヨセフがエジプトのパロ王の次の地位になったことにすぐもって行こうとするところがあります。その間、大変な出来事があったにもかかわらずです。しかし聖書を良く読んで見ますと、ヨセフはこの時の夢を一瞬も忘れず、神様がその夢を成し遂げてくださることだけを思い、その確信に満ち溢れて生きて行ったとは言い切れないと思います。
それでは、ヨセフの夢は何だったでしょうか。それは神様からの啓示です。神様は聖書が書かれる前の時代には、御声をもって語って下さり、御使いを遣わして御旨を教えて下さり、夢や幻を通してご計画を教えて下さいました。そして、その啓示の目的は神様がご自身を現わす事です。ですからヨセフの夢を通して、神様はご自身がどんなお方であり、ご自分のご計画をどのように成し遂げてくださるのかを教えてくださったのです。そしてそれはヨセフの人生にどんなことがあっても必ず成し遂げられたのです。時には、信仰者である私たちの人生の道が大変であると思われることもあります。しかし、神様は同じく、どんなことがあっても私たちの人生をもご自分のご計画通りに導いてくださるお方なのだ、ということを覚えて歩んで行きたいと思います。