「神に喜ばれる者」 ヘブル人への手紙11章6節
本日の本文に「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。」とあります。神さまはご自分の民が信仰によって生きて行くことを願っておられます。ハバクク2章4節に「正しい人はその信仰によって生きる。」とありますが、神さまの民はこの世の中で生きても信仰によって生きて行く者です。それでは神さまの民が持つべき信仰とは、どういうものでしょうか。それについて本日の本文では大きく二つで説明しています。
一つ目の神さまがおられることを信じる信仰、これは神さまの民には当然の話しです。ところが、何故ヘブル人への手紙の著者はこのように語っているのでしょうか。それは当時のクリスチャンがそれを信じることが出来なくなっていたからです。神さまはいつも私たちとともにおられます。しかし私たちは、生き方の中で神さまがおられることを疑う時があります。苦しみがある時、大きな問題に陥った時、または失敗と挫折の場にいる時など、そういう時には自分ひとりでそこにいるように思われます。又は、あまりにも忙し過ぎて日常の生活の中で神さまのことを忘れて生きて行く時もあります。そういう私たちに聖書は神さまが私たちとともにおられ、私たちの心の中に住まわれるということを教えます。どんなことがあっても、神さまがおられることを覚えて、そのみこころに従って生きて行く者が信仰の人なのです。二つ目は、神さまは報いてくださるお方であることを信じる信仰です。パウロは朽ちる冠のために自勢をし、一所懸命に練習する人々に例えて、信仰者は朽ちない冠を受けるために自分を鍛錬することを教えています。
今年の最後の日に、其々歩んで来た一年間を振り替えて見ながら、自分の信仰はどうだったのか考えて見たいと思います。勿論、信仰によって歩んで来られたと思いますが、時にはそうではなかった時もあったと思います。そんな私たちをも愛してくださる神さまのことを覚えて、神さまに喜ばれる者になりたいと思います。
「この上もない喜び」 マタイの福音書2章1-12節
本日は二千年前に救い主がこの地にお生まれになったことを記念し祝う日です。この日にクリスマス記念礼拝をささげている私たちは、救い主であられるイエスさまをどのように覚えるべきでしょうか。本文に出て来る東方の博士たちは宝箱をあけて、黄金、乳香、没薬を準備してイエスさまにささげ、救い主を拝みました。そのように私たちも、救い主がこの地にお生まれになったという知らせを喜び、自分の最上のものをもって迎えれ入れなければなりません。
先ず、この博士たちは東方の国から星を見てエルサレムまで来ました。東方という国を一つに特定することは難しいですが、バビロンのことである可能性が高いです。何故なら、バビロンは旧約時代のバビロン捕囚の時に多くのユダヤ人がそこに定着していましたからです。そして博士というのは天文学と占星術に詳しい人であって、当時としてはエリートであったと考えられます。そういう彼らは異邦人でありましたが、星に導かれてユダヤのベツレヘムまでたどりつき、幼子のイエスさまにひれ伏し拝みました。救い主がお生まれになったこの時に、イスラエルの人々はそれを知りませんでした。祭司長もいれば律法学者もいましたが、誰もイエスさまを拝んだりしませんでした。そこには遠い国からベツレヘムまで来た異邦人の天文学者たちがいたのです。
そのような彼らを神様は星を通して導いて下さいました。旅の途中、大変なことは色々とあったと思われます。長いだけに大変な旅路でしたが、そんな旅路を守り導いてくださったのは神様でした。自分たちを先導した星がついにイエス様がおられるところにとどまり、それを見た博士たちはこの上もなく喜びました。その大きな喜びはここまで導いてくださった神様のみ力を恵みを覚えてのことでしょう。私たちの信仰歩みも神様はそうやって導いてくださいます。この一年間もここまで導いてくださった神様を覚えまして、私たちに与えられる大きな喜びに感謝するものになりたいと思います。
「私たちのために生まれた神」 イザヤ書9章1-7節
12月のこの時期、全世界はクリスマスによって騒いでいます。私たちが生活しているこの名古屋もあちこちにクリスマスツリーがあり、メリー・クリスマスという言葉が普通に言われています。しかし、そのような所にクリスマスの本当の意味であるキリストはおられません。というのは、そこには真の光であられるイエスさまを知らないままクリスマスを楽しみ喜んでいるからです。それでは、クリスチャンである私たちは、この世の中で生きて行きながら真の光であられるイエスさまを心に覚えて生きているでしょうか。この12月、町中がクリスマスにはまっている中で、クリスマスの本当の意味を覚えて、この地に来られたイエス・キリストによって喜んでいるでしょうか。私たちのためにお生まれになった神、その真の光に照らされた者であれば、それによる喜びが私たちの生き方を通して現れるべきであると思います。
そしてそれは、もはや以前の暗やみや死の陰を歩いている姿ではなく、光に照らされて将来への望みと喜びを見上げて歩んで行く姿です。本日の本文を見ますと光に照らされる前とその後の姿が明確に分かります。以前は暗やみの中で辱しめられましたが、しかし今は光を見て光に照らされ、楽しみ喜んでいます。それは他の理由によってではなく、ひとりのみどりごが私たちのために生まれ、私たちに与えられたからです。そのお方は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれますが、私たちを愛して下さる神さまは、私たちのためにこのお方を遣わしてくださったのです。
ところが、私たちは毎日、このお方によって照らされた者として喜びを持って生きているのでしょうか。また将来の希望、望みを与えられた者としてその望みによって喜びと感謝の中で生きているでしょうか。たとえ、私たちの毎日が暗やみそのものであっても、光であられるイエスさまを覚えて将来の希望を見上げて歩んで行く者となりたいと思います。
「忠実な管理人のように」 ルカの福音書12章41-48節
本日の本文はペテロの質問から始まります。イエスさまは35節以降で婚礼から帰ってくる主人を待っているしもべたちについて例え話をしてくださいました。その例え話を聞いていたペテロは、弟子である自分たちに話して下さるのか、それともそこに集まっていた多くの人たちに話してくださったのか、疑問になって質問したと思います。
そんなペテロの質問にイエスさまは直接に答えてくださらないで、忠実な管理人と不忠実な管理人の話しをしてくださいます。先ずは忠実な管理人について話してくださいますが、彼は主人の存在をきちんと覚えているしもべでした。そこから自分に何を任されているのかといことを覚えてその任された仕事に最善を尽くす者でした。そしてそのような姿が忠実な思慮深いということでした。そのようにいつも主人の存在を覚えてその主人から何を任されているのかということを覚えてそれにいつも忠実に、そして思慮深く行なう管理人、そのような管理人は主人が帰って来て主人に褒めてもらうのでした。ところが、そうしなければならないしもべが、自分の立場を忘れてしまいとどうなるのでしょうか。そのようなしもべは、主人の帰りはまだだと思って自分が主人のように振る舞ってしまうのでした。
ところが、重要なことは主人は必ず帰って来るという事実です。その時は知りませんが、主人は必ず帰って来て忠実なしもべには主人の全財産が任されます。そして不忠実なしもべにはひどく罰せられ、鞭打たれるようになるのでした。この例え話は教会の中でリーダーのような立場、即ち牧師等に言われているものだと言います。しかし、その話しを少し広げて考えて見ますと、クリスチャンである私たちは皆、私たちの周りにいる人々を任された者です。ですので、私たちの主人であるイエス・キリストを覚えて、忠実な管理人のように、私たちに任されたことに最善を尽くして歩んで行きたいと思います。
「罪を取り去る神」 サムエル記第二 12書1-13節
本日の本文は、神様が預言者ナタンをダビデに遣わしてその罪を指摘してくださる内容です。初めにナタンは例え話をしますが、その例え話には富んだ者と貧しい者が出て来ます。貧しい者には自分の娘のように大切にしていた一匹の子羊がいました。ある日、富んだ者のところに旅人が来ました。それで富んだ者はその旅人にもてなしをしなければならなかったですが、自分の羊や牛は惜しんで貧しい者の一匹の子羊を取り上げて、それで調理をして出したのです。
そのようなナタンの話しを聞いていたダビデは、それが自分のこととは思わず、その富んだ者に対して死刑だ、あわれみの心もないのだと話します。このダビデの話しを聞いていたナタンは、ダビデに「あなたがその人です。」と告げます。そして本文の7節と8節でその理由を説明しました。そこには、神様がダビデに有り余るほどすべてのことを与えてくださったのに、ダビデはそのような神様の戒めをさげすみ、他人の妻を取り、その妻の夫は殺してしまったと言うことでした。このようにして神様はナタンを通してダビデの罪を指摘してくださいました。この時まで誰もダビデに対してその罪を指摘しませんでした。そしてダビデも自分の罪を悟ることが出来ず、色々な理由をつけて自分を弁護しようとしたかもしれません。却ってバテ・シェバが悪いとか、ウリアが悪いとか、その時に状況が良くなかったなど、自分の罪ではなく他人のせいにしていたのです。
そんな時、神様はダビデの罪を指摘し教えてくださったのです。そしてダビデはそう指摘された時、すぐに「私は主に対して罪を犯した。」と告白しました。この告白こそ神様が求めておられたことでした。そのように悔い改めるダビデに対して、神様はその罪を見過ごしてくださる、と仰ってくださいます。本日よりアドベントが始まりました。私のために、私を罪と永遠の滅びから救ってくださるために来られたイエス・キリスト、そのキリストのゆえに私たちの罪を赦してくださる神様の恵みを覚えて歩んで行きたいと思います。
「目を覚ましていなさい」 ルカの福音書12章35-40節
ルカの福音書12章においてイエス様は弟子たちに弟子としての歩み方について教えておられます。そして本日の本文では、主人の帰りを待っているしもべの例え話を通して待ち続けることの大切さを教えてくださいます。本文の例え話で出て来る主人はイエス・キリストであり、しもべは弟子たち、またはクリスチャンのことです。そして主人か帰って来ると言うことは、イエス様が再びこのように来られる終わりの時、再臨のことです。しもぼたちが主人の帰りを待っているように、クリスチャンもイエス様が再び来られることを覚えて待ち続ける生き方をしなさい、と言うことが例え話の内容です。
そのような例え話の中で、先ず私たちはしもべがどんな姿をして主人を待っているのかを見ることが出来ます。婚礼から帰って来られる主人ですが、その帰りを待っているしもべは主人がいつ帰って来られるのか全く分かりません。それが真夜中なのか、夜明けなのか分かりません。しかし主人が帰って来られた時、しもべは主人を迎えなければならないので、その準備をしていなければならないのです。特に腰に帯を締めて、あかりをともしていると言うことは、主人がいつ帰って来られても迎え得ることができるように準備しているしもべの姿です。イエス様は私たちにそのようなしもべであるように、と仰ってくださいます。
そしてそのようにいつも準備をしていて、主人が帰って来られた時に主人を迎えたしもべに対して主人は驚くことをやってあげるのでした。それは、主人のほうが帯を締めてそのしもべのそばについて給仕をしてくれるということです。この世では考えられない風景ですが、それが私たちクリスチャンに与えられる恵みなのです。ですから私たちはいつその日が来るのかは分かりませんが、イエス様は必ず帰って来られるということとその時に私たちに与えられる恵みを覚えて、目を覚まして待ち続ける者となりたいと思います。
「神に頼る者」 サムエル記第一 5章1-5節
ペリシテ人との戦いでイスラエルは大敗北し、主の契約の箱をも奪われてしまいました。戦争に負けてしまい、さらに主の契約の箱まで奪われたイスラエルはこのまま終わってしまうのかのようにも見えます。一方、イスラエルに大勝利を得て、神の箱まで手に入れることが出来たペリシテ人は、神の箱をアシュドデというところに運びました。そして本文の2節を見ますと、ペリシテ人は神の箱を彼らが拝んでいたダゴンの神殿に入れてそのダゴンの像の隣に置きました。
ところが、その翌日、その神殿で不思議なことが起こりました。朝早く神殿に行って見ましたら、神の箱の前に自分たちの神であるダゴンが倒れていたのでした。そして、その次の日の朝、同じようなことがまた起こりました。朝早く行って見ましたら、また、ダゴンが神の箱の前に倒れていたのです。そして今回はもっとひどい状態でありましたが、頭と両腕が切り離されました。それでダゴンの胴体だけが残り、その胴体も神の箱の前にうつ伏せになっていたのです。これは神様が異邦の国、ペリシテにてご自分の力と栄光を現わした出来事でした。ペリシテ人は人の神、ダゴンがより強い神だと思いましたが、実は神様の力がより強いものであってペリシテ人の神はその御前にうつ伏せになっていたという事です。
このように力強い神様の箱をもっていたイスラエルは何故ペリシテ人との戦いで負けたのでしょうか。それは自分の罪は悔い改めないで、ただ自分たちの目的、願いを成し遂げるために神様の力を使おうとしたからです。そのようなイスラエルには神の箱があったとしてもペリシテに負け、神様の栄光が去ってしまったのです。それを覚えて私たちは、私たちの神様に対する姿を振り返って見なければなりません。自分の罪を悔い改め、神様の憐れみを求め、神様に頼りつつ信仰の道を歩んで行かなければなりません。それで私たちの生き方を通して神様の栄光が現れる者になりたいと思います。
「神の国を求めよう」 ルカの福音書12章22-34節
前回、イエス様は互いに足を踏み合うほどにたくさん集まった群衆に「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。」ということを教えてくださいました。神様を知らない人々は自分のために財産を蓄えて、それによって自分のたましいが安らぐと思います。それによってもっともっと自分のために物を集め、蓄えます。しかし、クリスチャンはそうであってはならない、とイエス様は仰います。本日の本文においては、神様の子どもであるあなた方は何を大切にし、何を求めなければならないのかといことについて教えて下さいます。
本文の22節「心配したりするのは、やめなさい。」と言われたイエス様は28節の終わりのところでは「ああ、信仰の薄い人たち」と嘆息をなさいます。神様を知らない人々はこの世の物に頼り、それを如何すればもっとたくさん自分の物にすることが出来るだろうかと心配します。しかし、神様を知っていて信じている信仰者であるとしても神様への信仰が薄いものであれば、彼らのように何を食べるのか、何を着るのかで心配してしまいます。そこで神様がどのように養ってくださるのかを烏とゆりの花をもって説明して下さいます。烏は蒔きもしないで、刈り入れもしません。また、納屋も倉もありません。けれども、神様は烏をも養ってくださるお方です。また、ゆりの花もです。ゆりの花は紡ぎもしないで織りもしません。そうなのに、神様はそのゆりの花をソロモンよりも美しい衣服で着飾ってくださいます。
そのように憐れみ深い神様は烏よりもゆりの花よりも大切なあなたたちを養ってくださらないわけがない、ということです。そのような神様のことを覚えて、神様の子とされたあなたたちは何よりも、まず神の国を求めなさいということです。烏もゆりの花もそうであったように、私たちの必要のすべてを知っておられる神様を覚えて、その神様が養ってくださることを信じて心配ややめ、神の国を求める者となりたいと思います。
「神に喜ばれる者」 ヘブル人への手紙11章1-6節
本文の6節を見ますと神様に喜ばれる者は信仰がなくてはならない、と書かれています。その信仰は、同じく6節を見ますと「神がおられること」と「神を求める者には報いてくださる方であること」を信じることであると説明されています。そして神様に喜ばれていた者としてエノクについて説明しています。エノクは創世記5章に出て来ますが、彼に関する内容はただの3節だけです。本当に短い内容ですが、エノクは神様とともに歩んだ、と書かれています。即ち、罪が増大していた世の中で神様がおられること信じ、その神様を信頼し、神様を覚えて生きていたということです。そのようなエノクについて本日の本文では、神に喜ばれていることが証しされていた、と書かれています。
それでは罪人である私たちは、何を通して神に喜ばれることが出来るのでしょうか。それは礼拝を通してです。本日の本文にもう一人の神に喜ばれた者が出て来ますが、彼は4節のアベルです。アベルについては、アベルがささげたいけにえによって、義人であることの証明を得ったと書かれています。そしてカインとアベルのいけにえを比べながら、アベルはカインより優れたいけにえをささげ、そのささげものは神様に良いささげものだと証しされたと書いてあります。同じささげものであってより優れたささげものがあり、神様によいささげものだと認めて頂けるささげものがあれば、そうでないささげものもある、ということです。そしてそんな中で神様が喜ばれるささげものがあるということです。
本文の4節には、その違いを「信仰によって」ということばをもって説明しています。信仰によってアベルはカインよりもすぐれたいけにえを神様にささげたし、神様はそのいけにえを喜ばれたということです。私たちがささげる礼拝はどうでしょうか。悪に満ちているこの世の中で、私たちは神様がおられることと神様を求める者に報いてくださるお方であることを信じて、神様に礼拝をささげる者になりたいと思います。
「本当に豊かな者」 ルカの福音書12章13-21節
本日の本のたとえ話は「愚かな金持ち」と呼ばれるものです。このたとえ話は四つの福音書の中でもルカの福音書だけに書かれている者ですが、しかしイエス様のたとえ話の中では良く知られている内容です。そのたとえ話の始まりはひとりの人がイエス様に遺産の分配についてお願いをしたことからです。当時、遺産の分け方がありましたが、この人の兄弟はそれを守らなかったでしょう。それについて、イエス様に解決して頂こうと思った彼でしたが、しかしイエス様は彼の心の中にある貪欲の問題を指摘してくださり「愚かな金持ち」というたとえ話をしてくださったのです。
たとえ話の内容は非常にわかりやすいです。ある金持ちがいましたが、彼の畑が豊作でした。元々金持ちであった彼の倉庫はすでにいっぱいになっていたので、彼は豊作の作物を如何したらいいか、悩み始めました。それで思いついたのが今の倉庫を取り壊してもっと大きな倉庫を作り、そこに豊作の作物を全部入れて置くと言うことでした。それに思いついた彼は、自分のたましいに「これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」と言ったのです。財産をたくさん蓄えることが出来た金持ちは、その財産によって自分のたましいがこれから安心して楽しむことが出来ると思ったことです。
しかし、この時、神様からのことばは違うものでした。そのようにたくさんの財産によって安心している彼に対して神様は「おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。」と話されました。そうなりますと、彼の財産はもう彼のものでなくなります。それで神様は自分のいのちを保証できないものをもって自分のいのちを守ろうとする金持ちに対して愚かな者と話されたのです。私たちの願いは誰に向かっているでしょうか。それが自分であるなら、それは神様の前では富まないものです。自分のために蓄えるものではなく、自分に与えられたものを神様に使い、神様の前に蓄えるものになりたいと思います。