礼拝メッセージ要旨

3月20日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「主に従うように」           エペソ人への手紙5章22-24節

聖霊に満たされたクリスチャンに「キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい。」と教えたパウロは、色々な人間関係においてのあり方について説明して行きます。エペソ5章22節から6章9節までの夫婦のあり方、親子のあり方、そして主人と僕のあり方がクリスチャンの従う姿の具体的な例として挙げられ、説明されているのです。その一つ目として本日の聖書は、夫婦のあり方の中で妻への教えです。

先ず、本文の22節を見ますと「妻たちよ。…、自分の夫に従いなさい」と言われまして、聖書が男尊女卑のことを教えているように思うかも知れません。しかし聖書は男性と女性は平等であることを教えています。そのような男性と女性の事ではなく、夫婦の関係に押して妻への役割の教えとして「自分の夫に従いなさい」という事です。そして何故妻は夫に従うのか、という説明が23節、24節と続きます。その理由は、神様が定めて下さった家庭内での秩序であるからという事です。ここでパウロは、夫婦の関係をキリストと教会との関係を用いて説明します。それは、神様はキリストを教会のかしらとして与えて下さったように、家庭内での秩序も神様が定めて下さって、「夫に従いなさい」という教えがその神様の秩序に従うことである、という教えです。そして24節では、妻の夫に従う姿が「教会がキリストに従うように、すべてのことにおいて」とより強く強調されています。

「主に従うように」というのは、自分がイエス様に従うように相手に従うということです。そして相手に従う姿を通して、実は「主に従う」ことが実践されることでもあります。イエス様がご自身をお与えになったほどに私たちを愛しておられることを覚えて、私たちもその愛に答えて主に従う者になりたいと思います。そしてその心が、実際に、夫に、隣人に対して主に従うように従う姿を通して現わされる生き方を歩みたいと思います。

3月13日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「義に飢え渇いている者」           マタイの福音書5章6節
本日のみことばは、八つの祝福の中で4つ目についてです。私たちは心の貧しさを知り、それに対してどうしようもなく自分の心の貧しさに涙を流して悲しむことしかできない存在でありました。そしてそのような自分の弱さを認識するようになった者なら、神様の御前でへりくだって、すべてを神様に委ね、みこころに従う者であるということを考えて見ました。ところが、この四つ目の祝福では今までとは違って、大きな方向転換の姿を見ることが出来ます。それは自分の貧しさを知り悲しむばかりではなく、義への飢え渇きという積極的な願いをもつということです。
私たちが飢え渇いて求めなければならない「義」とは、何でしょうか。それは、ある社会で規則を正しく守って約束を良く行ない、道徳や倫理を良く守ることなどに留まることではありません。勿論、このような姿もその社会において「義」であるとも言えるでしょう。しかしクリスチャンである私たちが求めなければならない「義」とは、神様が私たちに教えて下さる「義」なのです。私たちの心を貧しくし、私たちを悲しむようにする根源的な原因、それは「義」のない状態であって、そもそも「義」がないので飢え渇いていることでもあります。そして飢え渇いているということは、その罪の状態から解放されたいと願い、心から激しく欲しいと渇望することなのです。ですからそれはある程度の立派な人になりたいとか道徳的に立派になりたいという事ではなく、根本的な罪の問題を解決して頂き、その罪から完全に解放されるようにと徹底的に願い求めることです。
イエス様はそう願っている人々に、義への飢え渇きを教えて下さいます。そのような義への飢え渇きを持っている人には、その飢え渇きが満ち足りるまで与えられると教えられています。義に飢え渇いているものを満ち足りるまで満たして下さる神様を見上げて、私たちに与えられた目標を目指して走っていく者となりたいと思います。

3月6日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「父なる神に感謝」           エペソ人への手紙5章19-21節
 本日のみことばは、5章18節で「御霊に満たされなさい」ということについての説明です。パウロは18節で「酒によってはいけない、そこには放蕩があるからだ」と言いました。それは、自分自身や酒のように神様ではないものに支配されるものは、神様から離れた生き方をするのだということでした。それに対して、聖霊に満たされればどうなるのかを本日の本文で説明しているのです。つまり聖霊に満たされることによってどういう状態になるのかということ、聖霊に満たされる結果、またはその有益についての説明しているのです。
 その一つ目は、聖徒たちの交わりにおいて「詩と賛美と霊の歌をもって、互いに語る」ことです。すでにパウロは5章3節と4節で、聖徒たちの捨てるべき言葉などについて触れて置きました。そのような言葉は捨てて、神様を賛美しその栄光を表して、私たちの信仰を言い表すことばをもって互いに語れ、という事です。そして神様に対しては「心から歌い、また賛美しなさい」勧めています。人を喜ばせる言葉ではなく、私たちの口を通して心から神様に捧げる賛美をしなさい、という事です。二つ目に、「神に感謝しなさい」ということです。私たちはどんな時に、どんなことを感謝することができるのでしょうか。そこでパウロは「いつでも、すべてのことについて」感謝しなさいと勧めています。それも「私たちの主イエス・キリストの名によって、父なる神に」とです。最後の三つ目は、「互いに従いなさい」ということです。これは今まで扱って来たことでもありますが、隣人に愛を持って互いに仕え合うということです。
 ここで何回も強調されていることは、私たちの心が何によって支配されているのかということです。聖霊に満たされるということは、私たちの心が神様に支配されることです。自己中心になりやすい私たちです。そんな私たちの心が神様に向かい、その恵みと愛を覚えて神様に感謝し、互いに従い合うことができるように祈り求める者となりたいと思います。

2月28日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「柔和な者」                      マタイの福音書5章5節

本日の聖書は八つの祝福の中で三つ目、「柔和な者」についてです。柔和と言いますと、優しい人、親切で落ち着いた雰囲気の人、または何かゆったりした人のイメージがあります。このように柔和な人とは、人と人の関係において角立たないで丸い性格であって、他人の考え方を尊重し、相手が置かれている状況を良く理解してくれる人のことだと言えるでしょう。このような外側の姿は何処からのものでしょうか。聖書において柔和というのは、神様との関係から説明されています。即ち、自分の思いではなく神様に委ねて、そのみこころに従って歩む者、その神様の導きを待ち望む者を柔和な者だと教えます。ですから神様との正しい関係の中から、全てを神様に委ねた結果、その神様への信頼から外側に現れる姿が柔和なのです。

このような柔和な人については詩篇37篇によく描かれています。柔和な人は悪者に取り囲まれている状況の中でも、ただ神様を信頼し、その状況を耐え忍びます。自らの力で解決しようとするのではなく、神様に委ねて主を待つ者として説明されています。特に詩篇37篇は「ダビデによる」と書かれていますが、自分を殺そうとするサウルに対するダビデの姿を通して柔和な姿を見ることが出来ます。ダビデはサウルのことを自らの力で解決しようとするのではなく、耐え忍んですべてを神様に委ねました。そして柔和な生き方の最高の模範はイエス様が残して下さいました。すべてを正しく裁かれるお方に委ねて、ただ神様が喜ばれることに従って十字架への道を歩まれた、その姿が柔和な生き方なのです。

イエス様の柔和な姿を模範にして、どのような場合でも耐え忍び、神様だけを信頼し、全てを委ねて神のこどもとして歩んで行きたいと思います。クリスチャンとして神様との正しい関係の中で、自分の貧しさを正しく認識して、他人に対しては愛と忍耐と親切をもって行なう者になりたいと思います。

2月21日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「聖霊に満たされる」              エペソ人への手紙5章18-21節
前回は「賢い人のように歩む」ことについて学びました。神様が聖書を通して私たちに教えて下さることを良く悟り、それを正しく守り行なうことが勧められていました。しかしそのように教えられて生きて行く私たちの生き方はどうでしょうか。聖書を読んでみことばを正しく学び深く理解したとしても、その通りに歩んで行くというのは、本当に難しいと思います。確かに、聖書を通して教えられたことを心に覚えてそれに従って歩んで行こうしますが、中々そのように歩んで行けない自分の姿を見る時があると思います。そのような私たちに本日の聖書は「聖霊に満たされなさい。」と教えています。
先ず「酒によってはいけない。そこには放蕩があるから」と書かれていますが、「酒に酔う」こととは何でしょうか。それは酒にびっしょり濡れている状態であって、酒の影響力によって自分自身を良くコントロールできない状態のことです。それによって自分の意志とは関係なく肉の欲に従って行なうようになります。そしてそのように酒に酔っている状態に「放蕩がある」とパウロは言います。「放蕩」とは、放蕩息子の例え話で良く説明されているように、息子が父親のそばから離れて自分勝手な生活をすることです。特にルカの福音書では「遠い国に旅立って」と書かれていますが、息子が父親の元から意識的に離れて父親を忘れて生きている状態のことです。ですから酒に酔うということは酒に支配されてしまうことなので、神様から離れて放蕩することになるのです。
それに対してパウロは「聖霊に満たされなさい。」と語ります。聖霊はクリスチャンに神様について、イエス様について教えて下さいます。その聖霊に満たされて導いて下さるまま歩むなら、クリスチャンは神様に親しく近付くことが出来るのです。神様から離れて自分勝手に生きて行くことではなく、聖霊に満たされてその導きに従って、神様のみこころのままに歩んで行く者になりたいと思います。

2月14日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「悲しむ者」                 マタイの福音書5章3-4節
 本日の聖書はイエス様の山上の説教の初めに出て来る「幸い」についての中で二つ目です。その4節は次のように言い返すことが出来ます。「何て幸いなんだ。悲しむ者よ。その人は慰められるから」ここでイエス様は「悲しむ者」に対して「何と幸いなんだ」と仰います。このようなイエス様のことばは、普通の私たちの常識では理解し難いものでしょう。この世の考え方では、悲しむ者は幸いどころか、むしろ不幸な者です。
 それでは「悲しむ者」とは、どういう意味でしょうか。それは神様の御前での自分の霊的状態を知り、その姿を悲しむ人のことです。私たちは神様の計り知れない恵みと愛を頂いている者です。そのような私たちが、神様に対して神様の民として相応しくない自分の姿を知るようになった時、私たちは悲しむと思います。神様の大いなる恵みを愛の中にいる自分が、その御前において生きて行く姿を振り替えて見た時、その罪深い姿を知って悲しむことです。ですから「悲しむ」ということは、「心の貧しい」ことから必然的に来るものです。神様の聖さを知り、そのような姿を私たちにも求めておられますが、それに対して貧しい自分の姿を見る時、その人は悲しむのです。そのような自分の弱さをパウロはローマ7章18節で「私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。」と語り、その心境を7章24節では「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」と言っています。
 そのように自分の罪深さや弱さを知って悲しむ者に対してイエス様は「幸いな者です」と仰って下さいます。それは、その悲しみは決して悪いことではないということでしょう。私たちが自分の弱さを知った時、そのまま悲しんで良いと言うことです。何故なら、そのような人は慰められるからです。神様は自分の弱さによって悲しむご自分の民を責められるお方ではありません。限りない愛をもって私たちを顧みて下さり慰めて下さる神様を覚えたいと思います。

2月7日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「賢い人のように歩む」         エペソ人への手紙5章15-17節

前回、光の子どもとなった私たちはその姿に相応しく光の子どもらしく歩まなければならないということについて考えて見ました。それに続きまして「賢い人のように」歩まなければならないとパウロは勧めています。それでは賢い人とは、どういう人なのでしょうか。本日の本文は「そういうわけですから」という表現で始まっています。というのは、今まで説明して来たように、賢い人は光の子どもらしく歩む者です。また、パウロは「よくよく注意し」なさいと語ります。「注意する」という言葉は、「全てを集中して、そのことに関心をもって見なさい」という意味です。そうしますと、パウロは「光の子どもとなったあなたがたは、あなたがたがどのように歩んでいるのかを注意深く見なさい」ということになります。

そして「賢い」とは、すべての知識などを活用して置かれている状況に適用して用いる事ができる力です。賢い人のように歩むということは、神様が私たちに与えて下さり、教えて下さったことを自分の人生の中で実践して行く事、それが賢い人のように歩むことなのです。ですから、私たちが聞いた事、知っている事、そして私たちに与えられた事を自分の人生の中でどのように用いることができ、歩んで行くことができるのか、それをよくよく注意しなさい、という事です。そのために「機会を十分に生かして用いなさい。」と、そして「主のみこころは何であるのかを、よく悟りなさい」と勧めているのです。

私たちは、自分たちが光の子どもらしく賢い人のように歩んでいるかどうか、自分の姿を良く注意して見なければなりません。このような勧めを覚えて、私たちのこれからの生涯の行ないに主の教えを適用して歩んで行きたいと思います。そうして、私たちの良い行ないを通して、真実と愛の歩みを通して、そして、光の子どもとしての歩みを通して神様の栄光を現わす者になりたいと思います。

1月31日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「光に照らされて」            エペソ人への手紙5章11-14節

本日の聖書では光の子どもとしてのクリスチャンの役割について教えています。以前5章8-10節では、暗やみから主にあって光の子どもとなったクリスチャンがどのように行なうべきであるかについて学びました。それは光の子どもらしく歩み、そのために主の喜ばれることが何かを見分けて従いなさいということでした。その後、パウロは光の子どもとなったクリスチャンが周りの人々に対してどのような姿を取るべきであるかについて教えます。それは、クリスチャンとして生きているところは救われる前と同じくこの世の中であるからです。ですから、私たちは光の子どもとして信じない人々に対してどのような態度を見せるべきであるか、そしてその関係はどういうものであるかについて説明しているのです。

先ず、光の子どもらしくその光を隠したりすることではなく輝かしく照らして、光としての役割を十分に果たしなさいと勧めます。たとえどんなに小さい光であっても、たとえすぐに消えてしまいそうな光であっても、この世の暗やみの中にいる人々にあなたがたの光を照らしなさいということです。何故ならそれによって、その暗やみが明るみに出るからです。そのようにクリスチャンが光の子どもらしく行なうことによって、その暗やみが光に照らされて、それがみな明らかにされるのです。暗やみの中では何が正しいのかということさえも分かりません。そんな暗やみに光が照らされれば、その光によって暗やみの実体が明らかになるのです。神様は私たちを光の子どもとしてくださり、暗やみの世の中でその光を放つようにしてくださって、私たちを通して神様の恵みと愛をこの世に広げてくださるのです。

ですから私たちは、もう一度、それぞれの生き方が光の子どもとして歩んでいるか、そして光の実を結んでいるかを振り替えて見なければなりません。神様は暗やみであった私たちを光の子どもとしてくださいました。真の光であられるイエス様に照らされてその光を照らす者となりたいと思います。

1月24日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「心の貧しい者」             マタイの福音書5章1‐4節

本日の本文は、クリスチャンが神様の子どもとして幸せであるということを最も立派に教えているところです。この部分を含めてマタイの福音書5-7章を山上の説教と言いますが、イエス様が天の御国の民が持つべきこころについて詳しく説明して下さった内容です。この山上の説教は、イエス様がこの時、一気に教えて下さったものではなく、著者マタイがイエス様の教えを集めまとめて記録したものです。それは、イエス様の教えの本質がどういうものであるのかを、マタイの福音書の初めの部分にはっきりと示そうとしたものだと思われます。

その教えの一つ目は「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。」ということです。この文書は、原文では「幸いだ」という言葉が冒頭に来ていて「何と幸いなのか」という感嘆文です。即ち「何と幸いなのか、心貧しい者よ。」となります。そして誰が幸いなのかと見ますと「心の貧しい者」だと言われています。心豊かなものではなく心の貧しい者が幸いだと、イエス様は言われました。この「心の貧しい者」とは、神様の御前で、或いは神様に対してその心、つまり魂が貧しい人ということです。神様に対して、その魂が貧しい人というのは、神様の教えと戒めを全く、何一つも守り従う事が出来ない人ということです。

そういう人に対して如何して幸いだと言えるでしょうか。人間の心は罪によって堕落し、神様に対して何も出来ないものです。イエス様はそのような状態にある罪人に来られて「幸いだ」と仰ってくださるのです。何故なら、何も出来ないほど貧しい心をもっている者に、天の御国をその人のものとして与えようとしておられるからです。私たちは本当に心の貧しい者です。神様の御前で、その教えを分かっても守り従う事が出来ない貧しい者です。そのような自分の心の貧しさを覚えて、私たちに幸いですよと仰って下さり御自ら犠牲を払って天の御国を与えて下さったイエス様の大きな愛を覚えたいと思います。

1月17日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「光の子どもらしく歩む」         エペソ人への手紙5章7-10節

本日の本文でパウロは、エペソ教会の聖徒たちに彼らの変った状態、身分について語っています。それは、以前は暗やみであったが、今は主にあって光となった、ということです。このように暗やみと光を対比して、以前と今との変った状態を説明しているのです。クリスチャンである私たちは、以前は暗やみでありましたが、今は光となって、私たちは光の子どもであるということを覚えなければなりません。私たちが置かれている環境は、私たちが光となったという事実にはどんな影響も与えることが出来ません。私たちが神様の恵みによって、主にあって光となったという事実は変わらないことであります。

その後「光の子どもらしく歩みなさい」とパウロは勧めます。まず、光の子どもらしく歩むというのは、本文の9節に書かれていますように、「光の結ぶ実」が私たちの生き方に見えるのか、を持ってチェックする事が出来ます。「光の結ぶ実」、即ち、「あらゆる善意と正義と真実」が生き方を通して現わされているがどうか、通して聖徒自身の信仰の歩みを振り替えて見なければならないと言う事です。そして積極的な勧めとして「そのためには、主に喜ばれることが何であるかを見分けなさい。」と言います。これは8節からの内容を考えて見ますと「光の子どもらしく歩むためには、主に喜ばれることが何であるかを見分けなさい。」ということになります。神様が喜ばれることは何かを知り、そのために生きて行く事はクリスチャンのみに、与えられた大きな特徴の中で一つです。と言うのは、神様が喜ばれることが何であるかと見分けることは神様の子どもだけに許されることであるからです。

私たちは神様の恵みによって、暗やみから光となった者であることを覚えて、光の実を結び、神様が喜ばれることが何かを見分けて生きて行く者になりたいと思います。それで、光の子どもらしく歩んで行く者になりたいと思います。