「すべての人を照らす」 ヨハネの福音書 1章9-13節
皆さんは普段聖書を読んでいますでしょうか。そして聖書からどういうものを学ぶことが出来ますでしょうか。この世の中で聖書はベストセラーとも言われる程よく知られている本です。聖書について深い関心をもってクリスチャンではなくても聖書を読む方がいれば、クリスチャンより深く学ぶ方もいると思います。聖書を読んだり親しくしたりしている人々の中で聖書が教えていること、聖書に書かれていることの真意をきちんと理解する人はどの位なのでしょうか。そもそも聖書が私たちに教えていることは何でしょうか。
そんな中で、本日の本文の10節を見ますと「この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。」と書かれています。勿論「この方」とは、イエス・キリストです。そして10節に書かれていることは、この世界はイエス・キリストによって造られたと言うことです。ところがこの世は、そしてこの世の人々はその造り主を知らなかったと教えています。そして続く11節を見ますと「この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。」と書かれています。つまりキリストはもとからおられて、この世界を造られたお方なのです。そのお方がこの世に来られたのに、人々は知らなかったし、さらには知ったとしても受け入れてなかったということです。
そのような人間に対して神様は大変大きな愛をもってあり得ないことをして下さいました。それが12節と13節の内容です。この世を造られた神を知らない人々、そのお方がこの世に来られたのに信じなかった人々を、神様はご自分の子どもとされる特権を与えてくださいます。人間は知らなかったのに、人間は受け入れなかったのに、神様は人間を受け入れて下さり、ご自分の子どもとして下さったのです。この神様の大きな恵みと愛を教えて下さるためにキリストはこの世に来られ、すべての人の心を照らして下さるのです。このまことの光であるキリストによって私たちの心が照らされ、その神様の愛に答えて歩んで行きたいと思います。
「立派な信仰」 マタイの福音書15章21-28節
本日の本文に出て来るひとりの女性は、ひどく悪霊に取りつかれた娘の母親です。マルコの福音書には「小さい娘」と記されています。まだ可愛い小さい娘が悪霊に取りつかれて苦しむ姿を見ることは、母親にとってそれ以上辛いことはないと思います。そんな彼女は、ある日、イエス様の噂を聞いて娘を癒してもらいたいという切実な願いをもつようになりました。そして、そのイエス様は近く来られた事を聞いた彼女はイエス様の所に行って「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。」と叫び始めました。
この女性は「カナン人の女」と書かれていて、マルコの福音書には「ギリシャ人で、スロ・フェニキヤ生まれ」であると紹介されています。彼女は異邦人であるということです。そのような彼女の口から初めて出た言葉が「主よ。ダビデの子よ。」ということでした。「ダビデの子」とは、メシヤ、即ち、約束された救い主という意味です。彼女は異邦人でありますが、イエス様について良く分かっていたのです。そしてそのイエス様に自分の願いを叫び続いていたのです。
ところが、イエス様はそのような彼女の切実な叫びに一言も答えられないでいました。また、そのような姿を見ていた弟子たちは困った顔でイエス様に何とかして下さるように、と話しをしました。その後のイエス様のお答は非常に冷たい言葉でありました。その後、母親は冷たくされて諦めるという事ではなく、今度はイエス様の前でひれ伏しながら「主よ。私を助けてください。」と言い始めました。このようにご自分の御前でひれ伏しながら助けを求めている母親に、イエス様は私たちの目を疑いたくなるようなことを言われます。それでもこの母親は諦めずに自分の弱さや貧しさを告白しながら、イエス様が恵みを与えてくださることを握り締めていました。
時には苦しみの中に置かれるとことがあります。そんな中で本文の母親のように恵みを与えてくださる神様への信頼を握り締めて祈り続くものとなりたいと思います。
「口から出るもの」 マルコの福音書7章14‐23節
人をどう判断するかということについて、その人の外側に見える行ないや姿によって判断するのは多いと思います。その時に主な判断基準になるものは内側のものではなく外側のものです。ところが、このようなことは今の時代だけではなくイエス様の時代にも同じような現象がありました。イエス様の当時にも人間の外側の姿や行ないをもってその人が汚れたのかどうか判断する人たちがいましたが、それはパリサイ人や律法学者たちでした。彼らは外側のことを重要視し、それに関する規定を厳しく守りました。そしてその規定を厳しく守ることによって自分たちはきよいと思ったのです。
本文の内容は、イエス様の弟子たちが手を洗わないでパンを食べる姿を見たパリサイ人や律法学者たちからイエス様への質問で始まりました。そのような弟子たちの姿を見たパリサイ人たちは、如何して昔の人たちの言い伝えを守らないのかという質問をしています(5節)。それに対してイエス様は外側のもの、即ち手を洗わないでパンを食べるという行ないが人を汚すことは出来ないと答えられました。汚い手を食べ物を食べたとしても、その人まで汚れることではありません。何故なら、そのようなものは人の心には入らないで、腹に入ってかわやに出されてしまうからです(19節)。たま、汚い手を食べ物を食べたとしても、その食べ物そのものが汚れることでもありません。
人間は外側からのもので汚れることではなく、内側のもの、即ち心の中からの悪い考えによって汚れるのです。人を汚すことの根本は心にあるのです。その心には悪い考えがあって、その悪い考えからどんどん悪い思いや行ないが外側に現れて出るのです。私たちの口から出るものはどんなものでしょうか。口から出るとは、心から出ると言うことであって、私たちの心から出るものが御霊の実であるように、いつも御霊の助けと導きを祈り求め、それに従って歩む者となりたいと思います。
「生ける神の御子キリスト」 マタイの福音書16章13‐20節
本日の本文はペテロの信仰告白で非常に有名な箇所です。イエス様はピリポ・カイザリヤという異邦の地域に行かれた時、弟子たちに「わたしをだれだと言いますか。」という質問をなさいました。
先ずは人々がイエス様のことを誰だといのか、という質問です。その質問に対して弟子たちは「バプテスマのヨハネやエリヤ、またはエレミヤだとか、また預言者のひとりだ」と言われていると答えます。このような人々の反応は、とても優れた力をもっている、神様から遣わされた預言者、即ち人間であるということになります。ところが、このような質問をされた時、弟子たちは戸惑ったと思われます。何故なら、今までイエス様とともに生活し、多くの人々からの反応をイエス様のそのまま見て来たからです。ですからこの最初の質問は、二つ目の質問、即ち弟子たちへの質問のためのワンクッションのようなものであって、この時の本当の目的は弟子たちへの質問でした。
今度は弟子たちに「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」と質問されます。この時、イエス様の質問に省略された接続詞があるとも翻訳する事が出来ますが、それは「それでは」という事です。多くの人々はわたしのことをそのように思っていますが、それではあなたがたはわたしをだれだと言いますか、という質問です。ピリポ・カイザリヤというところは、昔から偶像の神々が祭られていてローマ時代ではローマ皇帝崇拝のための神殿の建てられたところです。そのように偶像崇拝が盛んでいる町で、しかも多くの人々はイエス様について預言者のひとりという評価をしている。そんな中で、あなたがたはわたしを誰だと言いますか、とイエス様はあえて異邦の地で弟子たちに質問をされたと考えられます。
その時にペテロが答えたことが「あなたは、生ける神の御子キリストです。」という信仰告白でした。私たちの周りの人々がイエス様について何と言おうが、私たちを取り囲んでいる状況がどんなものであろうが、「生ける神の御子キリストです。」という信仰告白に堅く立つものとなりたいと思います。
「朽ちぬ愛」 エペソ人への手紙6章21‐24節
本日の本文をもってエペソ人への手紙も最後になります。この最後の部分において、パウロはこの手紙をエペソ教会の聖徒たちに届ける「テキコ」という人物について説明します。それは、この手紙がパウロによって送られたことに間違いないという事実を説明することでもあって、いわば手紙の印章を押すようなことでもあります。そしてそれと共に最後には、この手紙を受け取って読むすべてのクリスチャンへの祝祷が書かれています。
先ず、この手紙を託されたテキコについては「主にあって愛する兄弟であり、忠実な奉仕者である」と説明しています。テキコは使徒の働き20章4節に出て来ますが、その時はパウロの第三回目の伝道旅行の時です。その時からテキコはパウロの側にいてパウロと共に福音のために働いて来たと考えられます。そしてパウロがローマの獄中にいた時はパウロからの手紙を其々の教会に伝えることは勿論、パウロの代わりに教会を訪問したりしました。このようにパウロの側にいる時はパウロに仕え、その必要に応じてパウロの手紙を代わりに伝えたりしてパウロの手足となった人物であったのです。そのようなテキコを送ったのは、手紙とともにエペソ教会の聖徒たちがパウロの様子を知り、また彼によって心に励ましを受けるために、ということでありました。手紙を通してパウロの状況を知ることが出来るとしても、その側でともに生活をしていて、パウロと共に福音のために勤めていたテキコの口から直接パウロの話しを聞くことはエペソ教会の聖徒たちにより大きな力と励ましになったことに違いないと思います。それと共に、パウロにとってあれほど大事な人を送ってくれたということからもエペソ教会の聖徒たちには大きな励ましになったのです。
そして最後の祝祷においては平安と愛、そして恵みがありますように、と祈ります。そこで最も強調されたのは「朽ちぬ」という言葉です。私たち皆が、人生の最後の時まで限りない愛を頂いて朽ちない愛をもって主イエスを愛する生き方を生きて行きたいと思います。そしてその愛を日々の生活の中で表わし実践して行く者となりたいと思います。
「湖の上を歩かれる」 マタイの福音書14章22‐36節
私たちの人生において苦難というのはどういう意味でしょうか。そして私たちはその苦難についてどのような考え方をもっているでしょうか。可能であれば、自分の人生では味わいたくないものであり、そのような状況におかれたくないと言うのは苦難についての一般的な考え方だと思います。しかし私たちが生きて行く人生は海のようなものであって、ある時はとても静かで穏やかな時があればある時は荒い風や大きな波がたって如何すれば良いのか分からない大変な時もあるでしょう。このような苦しみの時に、又はそのような状況におかれた時、クリスチャンである私たちは如何すれば良いのでしょうか。
ある方は苦難について次のように話しました。「苦難は実に重い重荷だ。しかし良く考えて見ると、それは鳥にとっての翼のようなものでもあるし、さらには船の帆のようなものだ。人は苦難を通して空高く飛んだり海の向こうまで至ったりすることもある。このようにして私たちは苦難を通して神様に帰る事もあるのだ。苦難は私たちの敵のように見えるが、実は私たちのためのものであり、私を苦しめるように見えるが実は私たちへの愛の現れなのだ。」
本日の聖書は、弟子たちがガリラヤ湖の向かい風の中で悩まされていた時にイエス様が彼らに行かれたと記されてします。また、イエス様の命令を信じ従って水の上を歩けたペテロが、風を見て恐くなり沈みかけた時にイエス様がみ手を伸ばして彼を取って下さったことが出て来ます。このようにイエス様は弟子たちが悩まされ、苦しみの中にいる所に来て下さるお方なのです。また、ペテロが沈みかけていて必死に助けを求めている所に来られて、み手を伸ばして下さるお方なのです。私たちが人生の苦しみ、苦難や試練の中にいる時、そこに来てくださって「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」と話しかけてくださるお方である事を覚えまして、そのお方に頼りつつ、歩む者となりたいと思います。
「祈ってください」 エペソ人への手紙6章18‐20節
本日の本文でエペソ人への手紙の本論は終わり、21節からはパウロの個人的な挨拶です。この最後において祈りについて語り、祈ってくださいと要請をして本論を終えることに注目する必要があります。何故なら、この手紙には祈り以外にも教理と教訓、そしてクリスチャンの実践的な教えを具体的に取り扱って来たからです。その最後に、ただ祈りについて語っていると言うことは、それほど祈りというものが大切であるということです。特に本文で強調されているのは、他の兄弟姉妹たちのための祈りです。
先ず、パウロは「すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くして、また祈りなさい。」と勧めています。それは、自分は勿論、私たち皆が同じ霊的戦いをしているからです。また私たち皆は、同じように色々な問題と苦難、試練の中に置かれているからです。特にパウロはこの手紙の中で、一つのからだである教会について強調して来ました。その一つのからだである聖徒は互いのために祈り、すべての聖徒のために願い求めなければならないのです。すべての教会員が神様の良い兵士として共に堅く立って悪魔に立ち向かって打ち勝つことが出来るのです。この霊的戦いは一人で戦うことではなく、祈り合いながらすべての聖徒が共に戦うことです。次にパウロ自身のことで、福音の奥義を大胆に語ることが出来るように祈ってほしいと願っています。特にパウロは、エペソ教会にとっては誰とも比べることの出来ない素晴らしい先生であり、福音を伝えってくれた存在でした。そのようなパウロがエペソ教会の教会員たちに自身のために祈ってほしいというのは、どんな人であっても他の人々からの祈りの支えがなくてはならないという事です。
以上のことから、私たちは自分自身のことは勿論、すべての聖徒のために祈らなければなりません。共に悪魔に立ち向かい、他の人々に福音を大胆に語ることが出来るように祈りあって行きたいと思います。
「五千人の給食」 マルコの福音書6章30-44節
本日の本文は「五千人の給食」として良く知っている、非常に有名な箇所です。五つのパンと二匹の魚で、大人の男だけでも五千人がお腹いっぱいになるように食べたという大変驚く奇跡の出来事です。成人男性だけで五千人ということでしたので、女性や子どもも入れて考えて見ますと一万人以上の人々が集まっていたということになります。そんな大勢の人々を目にした弟子たちは何もないところで日も暮れるという状況の中で人々を帰らせてそれぞれが食事をするように、とイエス様に話しをしたのです。現実的に自分たちには解決出来ないことでしたので、そのように話した弟子たちでした。
しかしイエス様は、そんな弟子たちに少ないものであっても備えられていた五つのパンと二匹の魚に目をとめさせて下さいました。それがあったとしても今抱えている問題を解決することは出来ないように見えるものでしたが、イエス様はその小さいものを通して奇跡を行なって下さいました。そこに集まっていた人々の数を考えますと、五つのパンと二匹の魚というのは少ないというより、ないものに近いと思います。そのようなものを祝福して、それを通してそこに集まっていた大勢の人々に恵みを与えて下さるイエス様の姿を見ることが出来ます。
そしてイエス様は、この出来事において弟子たちを用いて下さり、弟子たちを通してその恵みを分けて与えて下さったのです。最初、弟子たちは現実的に出来ない事だと思ってイエス様に話しをしました。そんな弟子たちに対して「あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げなさい。」と、仰って下さいました。そして不可能と思っていた弟子たちの目を開いて下さり、ご自身の働きに弟子たちを用いて下さったのです。
私たち一人一人が持っているものは非常に小さいものです。これで何が出来るかと思われるものかも知れません。しかしそれをイエス様に捧げる時、イエス様は祝福して大いに用いて下さるお方です。そのイエス様に頼りつつ歩んで行きたいと思います。
「起きなさい」 ルカの福音書8章49-56節
本日の本文に出て来るヤイロという人物は会堂管理者であって、社会的に尊敬されていた人でした。そんな彼に、ある日、絶望の影が襲って来ました。それは12歳ぐらいのひとり娘が死にかけていることでした。何よりも大切で、誰よりも愛しているひとり娘が生死の境をさまよっていたのです。会堂管理者のヤイロはひとり娘を助けて頂くためにイエス様のところに来ました。ルカ8:41には「彼はイエスの足もとにひれ伏して自分の家に来ていただきたいと願った。」と記されています。
そこにはカペナウムの多くの人々が集まっていました。そういう状況の中で、イエス様の足元にひれ伏し、自分の家に来て頂いて死にかけている娘を助けて下さい、と切に願ったのです。彼のこのような姿は、自分の社会的な地位を捨ててのことだったと思います。愛するひとり娘が死にかけている切実な状況の中で、ヤイロにとってそれより大切な事はありませんでした。彼は社会的地位や面目のすべてを後にして、イエス様の足元にひれ伏したのです。
本文のヤイロのように、私たちも人生を生きて行くときに色々な大変な状況に置かれる場合があります。誰にも解決してもらえない問題を抱えて悩み悲しむときがあります。そのようなときに、私たちは誰に出て行き、助けを求めば良いのでしょうか。その苦しみの中で私たちが出て行くところ、助けと求めるお方はイエス・キリストです。この後、ヤイロの娘は亡くなり、ヤイロは全ての希望を失ってしまいます。死の前で人間に出来ることは何もありません。絶望だけです。しかし、イエス様はその娘の手を取って下さり「子どもよ。起きなさい」と言って下さいます。すると、娘はたちまち起きあがり生き返ったのです。そのときに悲しみは驚きに、絶望は喜びに変わったのです。今日も絶望の中で恐れおののいている私たちに「起きなさい」と語りかけて下さるイエス様の御声を心に覚えて、希望と喜びの道を歩んで行きたいと思います。
「祈りなさい」 エペソ人への手紙6章18-20節
エペソ人への手紙6章に入ってから、パウロは霊的戦いの中にいるクリスチャンについて説明して来ました。特にクリスチャンは神様の民として、この世と天にあるもろもろの悪い霊、そして悪魔と戦っていて、その霊的戦いに備えて神様のすべての武具を身に着けなければならないと教えました。そしてその六つの武具について説明しました。そして六つの武具について強調したパウロは、そのすべての上に、どんなときも絶えず祈り続けなさいと勧めています。それは、祈りを通しての神様との交わりの中でこの六つの武具は私たちの力になれる、ということでしょう。クリスチャンは神様の良い兵士として霊的戦いの中で、神様が与えて下さる武具を身に着けて、祈りの通しての神様との交わりし、神様から力を頂ければならないのです。ですからすべての武具を身に着けてどんなときにも祈らなければならないのです。
そのために、先ず私たちは私たちの生き方の中で祈らなければなりません。何故なら祈りの内容、祈るべきことは、私たちの生き方の中で与えられるものであるからです。パウロは18節で「そのために絶えず目を覚ましていて」と言います。私たちの隣にいる兄弟姉妹たちに視線を注いでその状況や問題、大変なところなどをいつも目を覚まして見つめている必要があります。そういう兄弟姉妹たちとの交わりの中でその必要を知り、教会の方々のために祈らなければなりません。そして聖霊によって祈らなければなりません。ローマ8章26-27節によりますと、聖霊は私たちが如何祈れば分からない時も私たちの祈りを導いて下さるお方なのです。そしてエペソ人への手紙の中に説明されている聖霊の働きは、教会の一つのからだとすることでした。ですので聖霊に導かれる祈りは、すべての教会の人々のための祈りとなり、聖霊がなされることが実現されることを願う祈りにもなるのです。
そのような兄弟姉妹たちの祈り合うこと用いて聖霊は教会を建て上げて下さるのです。私たち皆がお互いのことを覚えて、日々の生活の中で互いのために、どんな時も聖霊によって祈る者となりたいと思います。