「こわれた水ためをほる。」 エレミヤ書2章1節−13節
エレミヤは使者として神様から選ばれた人であり、預言者です。エレミヤは、ユダの人々や、イスラエルの南の地方の人々が神に背いていた時代に生き、神の御言葉を伝えていました。彼らはかつては若い花嫁のように神を愛し、神に対して誠実であったが、この時代には神から背を向け、神を忘れてしまいました。神を求めることはもはや無くなってしまいました。エレミヤは、その人々の偶像礼拝、人々の愚かさと不道徳を寓話的に、つまりたとえを持って描写しました。
神の使者としてエレミヤは、人々は、生ける水の泉である神様を捨てて、水を溜めることのできないこわれた水ためを、自分たちのために堀っているのだと述べたのでした。
この描写は、今日の私たちの人生にも、エレミヤの時代と同じようにあてはまります。私たちが、生ける湧き水としての神様を見捨てる時、私たちは、こわれた水ためを堀り、そこにはない水を飲もうとしているのです。
こわれた水ためを掘ること:
こわれた水ためは、人生の究極的源の意味と目的である神の代わりにしてしまうものです。それは良いものでさえこわれた水ためになってしまうのです。
生ける水をだす泉から飲むということ:
エレミアを通しての神様からのメッセージは、人々の罪を示していました。神様を認め、謙虚に罪を認めることが、悔い改めへの最初の段階です。悔い改めとは、自分のこわれた水ためから背をむけ、命の泉から深く飲むということです。
イエス・キリストは生ける水の泉:
イエス様は、生ける水をお与えになるのはご自分であるとおっしゃいました。(ヨハネの福音書4章13‐14節、7章37節) キリストにあって、私たちが命に必要なのは恵みと赦しなのです。
こわれた水ためを掘ることによって私たちの命を見つけることはできません。
こわれた水ためは、私たちの命のためのもっとも必要なものをためておくことはできません。イエス様は命です。イエス様は私たちを十分に満たしてくださいます。
「近い者とされる」 エペソ人への手紙2章11-13節
この手紙の受信者であるエペソの聖徒たちは、本来異邦人でありました。神様の救いの恵みに入ることが出来ない、救いの望みもなく、神様にみ怒りを受けるべき存在であったのです。ここで、パウロはそのようなエペソのクリスチャンの以前の姿を思い出しなさいと言っています。それは一体何故でしょうか。それは、救いの恵みをより強く覚えさせるためであると思います。以前の姿を思い出せば出すほど、今自分に与えられている神様からの恵みの有難さを知るごとが出来るからです。
その以前の姿とは、どんなものであったでしょうか。過去のエペソのクリスチャンたちは異邦人であり、割礼をもっていない存在でありました。キリストから離れて、イスラエルに属していなかった者たちでした。約束の契約を知らなかった人々であり、この世にあって望みもなく、神もない人たちであったのです。パウロはこうやって、過去のエペソのクリスチャンが置かれていた悲惨な状況を説明しています。これはエペソのクリスチャンだけではなく、引いて考えればすべての異邦人教会がもっている共通点でもあります。結局、キリストから離れてしまった存在であって、この世で何の望みのなく、ただ滅びに向かって走っている人生、そのような人生を送っている生き方をしていたということです。
しかし、今ではそうではないということが本日の本文で宣言されています。以前には悲惨な状態で生きていたが、しかし、今は全てが変わったということです。神様から遠く離れていた私たちが、今はキリスト・イエスの中にあって、キリストの血によって神様と近い者とされたのです。私たちが神様からどれほど遠く離れていた者であったのか、私たちが神様とどのような関係にあったのかを覚えるのは大事なことです。私たちがそれを知る時、神様と近い者とされたということがどれほど大きな恵みであるのかをも知ることが出来るのです。自分の姿を振り返り、神様の恵みを頂いている者としてへりくだり、愛をもって互いに仕え合う者として生きて行きたいと思います。
「良い行ないに歩む」 エペソ人への手紙2章8-10節
本日の本文は、神様からの恵みと救い、そして信仰について説明されています。この三つのことについて、そして神様の作品として救われた私たちに与えられた神様の目的について考えて見たいと思います。
一つ目に、私たちが救われたのはすべて神様の恵みのゆえです。8節に「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。」とありますが、「恵み、信仰、救い」ということばはとても重要なことです。私たちが救われた最も根本的な原因は「神様の恵み」であり、その救いは「信仰」を通して私たちに与えらるものです。そして、その信仰自体も神様からのプレゼントであるのです。
二つ目に、私たちが救われたことは、決して私たちの誇りにならないものです。恵みも、信仰も、私たちに与えられた救いのすべての過程においても、どんなものも私たちから出たものではありません。すべてが神様のプレゼントであり、神様の豊かな恵みのゆえに私たちに与えられたものであります。
三つ目に、私たちは、神様の造られた作品であります。神様は、私たちを新しく造って下さいましたが、それは良い行いをするために、キリスト・イエスの中で造ってくださったことです。そして、その良い行いも、また私たちの意思や決断によるものではなく、私たちに良い行いが出来るように神様があらかじめ備えて下さったのです。このように私たちが頂いた救いには、神様の良い行いという明確な目的があるという事を覚えなければなりません。
この良い行いとは、聖書を通して私たちに教えて下さるすべてのものであります。特にイエス様は、それが神様を愛する事であり、隣人を愛する事であると教えて下さいました。また、私たちがこのような神様の目的に従って良い行いをする時、7節で申し上げたように、この世は、そして私たちの周りの人々は、私たちを通して神様の豊かな恵みを見る事が出来るのです。私たちに与えられた救いを感謝し、神様の目的を覚え、その良い行いを行なって生きて行きたいと思います。
「権威あることば」 ルカの福音書4章31-37節
1994年、マザー・テレサがアメリカを訪問した時、国家朝餐祈祷会で演説をしました。その時の状況をある人は「やがてテレサがすべての話しを終えた時、彼女の話しに心刺されるところがない人は、聴衆の中で一人もいなかった」と説明しました。もし、マザー・テレサではない人が、その場で同じ話しをいたとしましたら、多くの人々から非難されたと思います。しかし、演説をした人は、マザー・テレサでした。当時、彼女は世界で最も尊敬される人であり、権威ある人でありました。それで、多くの人々は、自分の心が刺される演説であっても、最後まで傾聴することができたと思います。このように、人に感動を与えて動かせる事ができる真の力は、その人の真実な権威にあると思います。多くの人々に尊敬されて認めてもらえる権威、そのような権威が人々を動かすことが出来るのです。
しかし、真の権威とはこの世の偉大な人にではなく、イエス・キリストにあるのだと、聖書は教えています。本日の本文を見ますと、先ず、イエス様の権威は人々を救おうとされる愛で満ちている権威です。それは、ご自分が、やがて十字架にかかって、人々の罪の赦しのたまに死ぬ、ということを心に覚えてのことばであったからです。即ち、イエス様は聞いている人々を心から哀れみ愛して下さって、教えてくださったのです。二つ目に、このようなイエス様のことばは人を癒してくださる力で、その権威が現れました。本日の本文では、悪霊を追い出される出来事が書かれていますが、これは頑なな私たちの心が砕かれてイエス様の愛のことばを受け入れるようになることを表します。
キリストの権威とは、罪に陥っている人々を如何しても救おうとする愛の心からのことです。たとえ、人間がどんなにこのキリストを拒もうとしても、キリストはその愛のことばを語られることを止められないお方です。私たちがどんな反応をしても、どんな状況にいても、そのイエス様の愛を受け入れられるように、いつも私たちに権威あることばをもって語りかけてくださるお方であることを、心に覚えたいと思います。
「神の大きな愛のゆえに」 エペソ人への手紙2章4-7節
2章1-3節では、罪の中に死んでいた人間の絶望的な姿を説明しました。しかし4節からは、そのような人間に希望が見え始めます。そのような死の状態にあった私たちを神様が憐れんで下さったと言います。罪過と罪によって死んでいただけではなく、自分を救う事が出来る力も全くない罪人を神様が憐れんで下さいました。そして神様ご自分の計り知れない愛のゆえに、私たちを死んでいたままにして置かないで、私たちに救いを与えって下さいました。
1-3節と4-7節を「しかし」という言葉を入れてまとめて見れば次のように言えると思います。「私たちは生まれながら神様のみ怒りの対象でありました。しかし、神様が私たちを愛されるその大きな愛のゆえに、私たちを憐れんで下さったのです。私たちは霊的に死んでいました。しかし、神様が私たちをキリストとともに生かして下さり、キリストとともに天の所に座らせて下さいました。」この短い「しかし」という言葉を通して、驚く逆転が起こっています。以前の堕落した私たちの絶望的な状態が、しかしの以降には神様の愛深い主権的働きと強く対比されています。1-3節では私たちはこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者に従い、自分の肉と心のままを行なっていたと言いました。4-6節ではそのような私たちに主権的に三つの事を成して下さいました。私たちをキリストと共に生かし、キリストと共によみがえらせ、そしてキリストと共に天の所にすわらせて下さいました。
それは神様がご自分の豊かな恵みを明らかに示そうとされる大きな目的のためです。即ち、救われた私たちを通して、神様の豊かな恵みと神様の計り知れない大きな愛が、そしてその憐れみがこの世に見せられるのです。ですから、この世は私たちを通して、神様の豊かな恵みと愛を知ることが出来るのです。その豊かな恵みに感謝し、私たちが救われたという事には神様ご自身の目的があるということを覚えなければなりません。私たちを通して栄光を受けられ、私たちを通してご自分の豊かな恵みと大きな愛をお示しになる神様に感謝しましょう。
「深みに漕ぎ出す」 ルカの福音書5章1-11節
本日の本文は、イエス様がペテロを弟子としてお呼びになる場面です。ゲネサレ湖の岸べに、ペテロたちがいました。彼らは前日から夜が明けるまで漁をしましたが、魚一匹も取ることができず、朝になって網を洗っていたのです。そんな中で、イエス様はペテロの船に乗り、「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」と言われました。それを聞いたペテロは自分の考えを捨てて、その通りに従いました。すると、沢山の魚が取れたのです。その時、ペテロはイエス様の足元にひれ伏しました。そのようなペテロに、イエス様は「恐がらないでよい。これから後、あなたは人間をとるようになるのです。」と仰い、彼らは何もかも捨ててイエス様に従ったのです。このような出来事を通して、次の三つを考えて見ることが出来ます。
先ず、イエス様はペテロの空っぽの船に乗られたことです。二つ目に、船に乗ったイエス様は、ペテロに「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」という新しいチャレンジを与えて下さった事です。三つ目に、奇跡を通してペテロは、本当の自分について、そしてイエス様について知ることが出来たことです。
今日の本文の船は、私たちの人生のことだと思います。そして空っぽというのは、人生の大変な疲れと心配、挫折などを表すものだと思います。そういう私たちの人生の空っぽの船に乗って下さるということは、私たちと共にいて下さるということです。そして、何もかも駄目のように見える人生の中で、イエス様は私たちに全く想像もできない新しいチャレンジを与えて下さいます。それは、どんなに考えてみても、受け入れることが出来ないように見えるみことばです。しかし、私たちにはそのみことばに従うことが絶対に必要なのです。みことばに従うと言うのは、クリスチャンに当然のことでありますが、しかし、それを実践する事によって、神様を共に歩む人生を生きるという事を覚えたいと思います。
「かつての私たちの姿」 エペソ人への手紙2章1-3節
この手紙の1章の後半から始まった「神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるか」ということの説明は、2章まで続きます。2章では、神の恵みと力がどれ程偉大なものであるのかを知るために、救われた私たちがどのような状態であったのかを説明することから始まります。何故なら、救われる以前、私たちがどのような状態であったのかを正しく知ることによって、そんな私たちを救って下さった神様の力の偉大さを知ることができるからです。即ち、私たちが救い出された罪の深さを知ることを通して、私たちを救って下さった神様の力を知ることができるし、その恵みに感謝することもできるのです。
それでは、救われる以前の私たちの姿はどういうものだったでしょうか。パウロは1節で、かつてのクリスチャンの姿について「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって」とはっきりと教えます。「死んでいた」とは、霊的な死を現わしますが、それは神様から離れて神様との関係が打ち切られた状態のことです。続く2節と3節では、霊的に死んでいる人間の生き方についての説明です。霊的に死んでいる人間は「罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って歩み、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない」ます。このような生き方からは、神様を見つけることができません。「死んでいた」という表現から分かるように、神様からの教えに反応することができず神様のみこころに従うこともできなかったのです。
このような罪の中にある人間の状態について、パウロは「私たちも」と言って、ユダヤ人も異邦人も、すべての人々が同じ状態にあるということを現わしています。ですから救われる以前の私たちの姿も同じであった事を覚えましょう。そこから救い出して下さった神様の恵みと力がどれ程嬉しいことであり、感謝なことであるのか、心に覚えたいと思います。
「キリストのからだである教会」 エペソ人への手紙1章22-23節
本日の本文でパウロは、イエス・キリストについて万物の統治者であると説明します。22節に「いっさいのもの」という言葉がありますが、それは物質的なすべてのものだけではなく、目に見えない霊的被造物、そして全宇宙を表す言葉です。このいっさいのものが神様によってキリストの足の下に従わせられ、そしてキリストはいっさいのものの上に立つかしらとなりました。こういう表現は、キリストの主権を強調することであり、神様によって最高の座に着かせられたイエス・キリストが万物を統治され、万物の主であられることを説明していることです。私たちは、先ずイエス・キリストの統治が宇宙全体に対するものであり、その方の統治が決して教会に限定されるものではなくて、いっさいのものに及ぼすものであるということをしっかり覚えなければなりません。
続けて、キリストと教会との関係について、「キリストを教会にお与えになり、教会はキリストの体である」と説明します。即ち、「教会のかしらであるキリスト、キリストの体である教会」ということになりますが、それはキリストと教会が結合され一つになるということです。この結合とは、ぶどうの木とそれにつながっている枝のように、命が流れていて、命に満ちている有機的な関係です。ですので、教会はイエス・キリストを離れては存在できないし、教会のすべてはイエス・キリストから流れるものです。そしてかしらであるキリストは教会を守り、導き、治め、命を与えて下さるお方であるのです。
ある神学者は次のように話しました。「人間存在の全領域の中で、万物の主権者であられるキリストが『これは私のものである』と宣言出来ないところは一つもない。」キリストはいっさいのもののかしらであり、全宇宙がそのお方の足の下に従います。そして教会はそのお方のからだです。このような信仰告白が、まず信じる私たちの人生のすべての領域において現れ、イエス・キリストを主とし、その方に従う者になりたいと思います。
「ころがしてあった石」 ルカの福音書24章1−12節
イエス様の十字架での死は、弟子たちを始めイエス様を信じていた多くの人々を深い挫折と絶望に陥るようにしました。その中で「週の初めの日」、つまり日曜日の朝早く女性たちは香料を持ってイエス様の墓に行きました。それはイエス様の死体が腐るのを防ぐために香料を塗る習慣に従ってのことでした。この女性たちを始め多くの弟子たちは、イエス様の死とともにイエス様が教えて下さったみことばを忘れてしまい、その教えを信じようとしませんでした。このように香料を持って墓に来た女性たちも同じでした。
女性たちがイエス様の墓に着いた時、墓の入り口の石はころがしてあって、墓は空っぽでした。そんな墓を見た女性たちは、ただ途方にくれているだけでした。その時、二人のみ使いが現れて、その女性たちに「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。」と質問をしました。しかしこれは本文に登場する人たちだけではなく、クリスチャンが目指すべき信仰の方向を教えてくれる質問であります。
墓は空っぽになり、イエス様のからだはもはやそこにはないという事を見た時、この女性たちは戸惑ったり、悲しんだりするのではなく、かえて新しい信仰と復活の希望を持つべきでありました。いつもイエス様についていて、その働きを通して多くの教えを頂きましたが、彼らは十字架での死の後、イエス様が復活するということは信じなかったのです。イエス様の教えはすっかり忘れてしまい、その復活は信じない姿、これは今日、キリストの十字架と復活の栄光を認識できないまま生きているクリスチャンに大きな教えを与えています。イエス様の墓の石はころがしてあるのに、「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。」と言われないようにしたいと思います。そしてイエス様の十字架だけではなく、それを超えた復活の栄光を見る事ができるようになりたいと思います。
「十字架にすがるわれは」 マルコの福音書15章16-22節
本日の本文を見ますと、ローマの兵士たちがイエス様を嘲弄した後、十字架につけるために連れて行く場面があります。何の罪も犯さなかったイエス様でありますが、ユダヤ人たちの偽りの訴えによって罪人とされ、総督ピラトによって残酷な十字架刑を宣告されました。その後、イエス様はローマの兵士たちの鞭に打たれてその体は傷だらけになり、頭にはいばらの冠をかぶらせられました。まだ乾いてもない、血が流れていたはずなのに、ローマの兵士たちはその傷の上に衣を着せた後、その衣を脱がせたのです。その時、私たちには想像も出来ない痛みが加えられたと思います。ローマの兵士たちは、このような状態のイエス様を連れて、十字架につけるためにゴルゴダへと向かいました。イエス様はもうぼろぼろになった体で十字架を背負って、ゴルゴダまで行かなければならなかったのです。
ところが、途中でイエス様は限界に至り、もう進む事が出来なくなりました。イエス様が受けて来た事を考えて見ますと、誰もそのようになったと思います。それで兵士が一人の人を捕まえて、イエス様の代わりに十字架を背負うようにしましたが、その人がクレネ人シモンという人物です。彼は、自分の計画には十字架ということは全く入ってないことでしたが、兵士によって無理矢理にイエス様の代わりに十字架を背負うようになったのです。
この出来事によって、やがて彼と彼の家族が救われるようになります。突然、そして無理矢理にさせられた事でありますが、その時、シモンはイエス様とともにゴルゴダまで歩き、イエス様の十字架の姿をみて、救われる恵みを頂きました。十字架とは彼にとっては、突然の苦しみや苦難であるかも知れませんが、しかし、良く考えて見ると恵みでした。突然の苦しみや苦難の奏でも、私のために十字架の苦しみを受けられたイエス様を見上げて、その限りない愛に感謝し、イエス様だけにすがり歩む者になりたいと思います。