「御国への希望」 エペソ人への手紙5章3‐6節
本日の本文でパウロが語っている内容は、早く読み終えて次に行きたくなるところです。しかしパウロは、あえてこのような勧めをしているということを覚えなければなりません。すでに3章の方で出て来た内容でもありますが、それでもこのように繰り返しているというのは、それほど大事な事であり実践するのに難しいことであるからです。目をそらしたくなる内容ですが、聖徒として私たちが徹底的に捨てなければならないことを確認し、本文を通して私たちに希望を与えて下さる神様を見上げることができるようにと思います。
先ず、パウロは「口にすることさえいけない」ことについて説明します。この3節、4節に並べられていることは、この世の姿であるとも言えるでしょう。時に、当時のエペソという異教の社会では日常生活の中で見ることができる姿です。しかしエペソ教会の聖徒たちは、そのような過去の姿から神様に選ばれて区別されました。それが聖徒という意味です。彼らは、もはや神の国のものであって、神様に愛される神様の子どもとなったのです。ですから聖徒にふさわしく、過去の罪の姿は捨てなければならないということです。それを行なわないだけではなく、それを口にすることさえいけないとパウロは教えているのです。何故なら、「アリの穴から堤も崩れる」ということわざのように、ほんの小さいものであって、それによって全体が崩れ得るものであるからです。
ではどうしたらいいでしょうか。先ず、私たちは聖徒として「私は聖徒だ。私が神様によって選ばれて区別された者だ。私はこの世から区別されて神の国に属している者だ。」ということを覚えなければなりません。そして、そのような恵みを与えて下さった神様に感謝するのです。感謝するということは、神様がなして下さることが素晴らしいと思う事です。そしてそのことに満足して、それに相応しく行なうことです。神様がなして下さったすべてをありがたいと思って、残り僅かの2015年を感謝したいと思います。そしてその感謝を持って新しい2016年を歩み始めたいと思います。
「真のクリスマス」 マタイの福音書 1章18-25節
本日の聖書は、イエス・キリストの誕生についての内容です。特に、マタイの福音書では「ヨセフ」という人物を中心にして起こった出来事を記録していますが、これは1章の前半でのイエス様の系図とともにマタイの福音書の特徴でもあります。マリヤと婚約をしていたヨセフでしたが、そのマリヤが身ごもったという話しを聞いてどうだったでしょうか。それも聖霊によってという、この信じられない不思議な出来事に対して、どのように反応したのでしょうか。
最初、ヨセフはこの出来事について聞いてマリヤを「内密に去らせようと決めて」いました。ヨセフは偽りがなくまっすぐな人であって、神様の前で律法を忠実に守る正しい人でした。それとともに、ヨセフはマリヤを非常に愛してもいました。その正義と愛の間の葛藤と悩みの中でヨセフが決心した事がマリヤを「内密に去らせようと」したことでした。このように深く悩んでいたヨセフの夢で主のみ使いが現われ、マリヤの胎に宿っている赤ちゃんは聖霊によるものであるということ、そしてマリヤが男の子を産むから、その名をイエスとつけなさいということを知らせました。そして夢の中で主のみ使いのことばを聞いたヨセフは、その命じられた通りに、マリヤを妻として迎え入れ、子どもが生まれると、その名をイエスと名づけました。
このような本文の内容を通して、まず、ヨセフの信仰について考えてみることが出来ます。それは、みことば通りに行ないそして積極的に応えることです。二つ目には「イエス様の名前の意味」と「インマヌエル」という神様の約束についてです。「イエス」とは、「主は救い」という意味で「ご自分の民を罪から救う」ために神様によって名付けられた名前です。
このクリスマスの時に、私たちはヨセフのような信仰、その従順な姿を持ちたいと思います。そしてインマヌエルの約束通りに、この世にこられた救い主のご降誕を喜び、お祝いしたいと思います。
「生ける神の御子キリスト」 マタイの福音書16章13‐19節
イエス様の当時、多くの人々はイエス様がなさった御働きの真の意味を悟ることが出来ませんでした。只、イエス様を自分たちの願い、即ちローマ帝国の植民地から解放して下さり、個人の生活においては苦しみや悩み等の問題を解決して下さる方だと思いました。そのような人々の認識の中で、イエス様は公生涯の後半において、ピリポ・カイザリヤで弟子たちにご自分のこの世に来られた真の目的、その理由を明らかに教えて下さいます。この時のペテロの告白を通して示されたことは、当時ペテロを初め、多くの弟子たちにイエス様に対する正しい認識を与えたものです。本日の本文を通して、待降節第三主日においてお生まれになったイエス様を覚えて自分たちの信仰を振り替えて見たいと思います。
先ず、多くの人々がもっていたイエス様に対する認識は、不明確なものでした。弟子たちの答えによりますと、当時の群衆はイエス様をバプテスマのヨハネやエリヤ、エレミヤ、或いは預言者のひとりだと思っていました。このような群衆の認識は、不思議なことを行ない大きな教えを語る一人の人間であるということに過ぎないものでした。その後、イエス様は弟子たちに「あなたがたはわたしをだれだと言いますか」と質問しました。この質問は、他の人々から聞いたことではなく、あなたがた自身はどのような信仰告白をもっているのかという事です。
このようなイエス様の質問に対してペテロがあの有名な信仰告白をしたのです。「あなたは、生ける神の御子キリストです」と。これを聞かれたイエス様は、その告白の真意に説明して下さいました。それは、この信仰告白は決して人間からのものではなく、天の神様が教えて下さったものだという事です。このようにイエス様を知り、救い主として告白できることは、神様の恵みによるものであることを覚えたいと思います。私たちがイエス様を「私の救い主」と告白出来たことを感謝し、イエス様のお誕生を待ち望む者となりたいと思います。
「愛のうちに歩む」 エペソ人への手紙5章1-2節
今日の本文でパウロは私たちに大きなチャレンジを与えています。それは「神にならう者になりなさい」と勧めているからです。
まず、「神にならう者」とは、どういうことでしょうか。1節に使われた「ならう」という動詞は、「模倣する」、「型を取る」、または「真似をする」等の意味を持っています。即ち、「ならう者」とは、師匠と見習いとの関係のように、その師匠の姿を型取ったように模倣して従う者という意味です。このように、私たちは神様に選ばれた民として、そして神様に愛されている子どもとして、神様にみならう者となりなさいとパウロは勧めているのです。
それでは、どうしたら「神にならう者」となることが出来るのでしょうか。それについてパウロは2節で「愛のうちに歩みなさい」と言います。そして続けて、神様の愛についてキリストのみ働きを通して説明しています。即ち、神様にならう事とは、愛のうちに歩むことであり、その愛とは神様がイエス・キリストを通して私たちに教えて下さった愛であるということです。キリストは私たちを愛されて、私たちのために、ご自身のすべてを捨てて、人となってこの地に来られたのです。そしてこの地に来られて、ご自身を神様への供え物として捧げられました。そしてイエス・キリストがご自身をささげ物として、供え物として神様に捧げられましたことが神様への香ばしいかおりとなりました。私たちの代わりに、ご自分をささげられたイエス・キリストの犠牲の愛が、香ばしいかおりとなって、神様にささげられたのです。即ち、イエス・キリストがご自分の犠牲を通して、私たちに施して下さった愛のように、その愛のうちで行ないなさいということです。
キリストがあなたがたを愛されたように、あなたたちも愛のうちに歩みなさい。神様がキリストを通して見せて下さった愛の中で行なう時、私たちの愛は神様にならうものとなり、神様に喜ばれるものとなると思います。神様が私たちに教えて下さった、見せて下さった、そして実現して下さった愛、その愛のうちに歩む者となりたいと思います。
「イエス様に選ばれた者」 マルコの福音書 3章13‐19節
本日の聖書は、イエス様が12名の弟子をお選びになった有名な内容です。以前、イエス様が安息日に片手のなえた人を癒して下さったことがありました。その時、パリサイ人たちはヘロデ党の者たちと手を組んでイエス様を殺そうとする相談を始めました。本日の聖書はその続きですが、それと共に、当時イエス様に関する話しはガリラヤを中心として東西南北広い範囲に広がり、各地から大勢の人々がイエス様のもとに集まって来ました。
このような状況の中でイエス様は12名の弟子をお選びになりましたが、本日の本文によりますと「ペテロ、ヤコブとヨハネ、アンデレ、ピリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルパヨの子ヤコブ、タダイ、熱心党員シモン、イスカリオテ・ユダ」です。ここに書かれている人々のことを見ますと、ある者たちは漁師、ある者は収税人というローマ帝国のために働いた人、ある者は激しい愛国主義者でした。その他の人々をも、いずれにしても彼らの中には専門的な宗教・政治的指導者は一人もいなかったのです。そしてこれからのイエス様の働きに役に立つような権力者も、お金持ちも、戦略的に優れた人もいないのです。こんな人々でありますが、イエス様はどのような基準をもって、何のために彼らをお選びになったのでしょうか。
先ず、イエス様は「ご自身でお望みになる者」を選ばれましたと書かれています。それは、徹底的にその選びの基準が人間にあるのではない、という事です。選ばれた基準を人間から捜す事ではなく、その基準が神様ご自身にあるという事です。そしてその選びの目的は、イエス様の身近に置いて彼らを教え、そして彼らを遣わして福音をのべさせるためでした。私たちは12弟子でも、12使徒でもありません。しかし神様同じくご自身のお望みのまま私たちをも選んで下さり、神のこどもとして下さり神の家族として下さいました。それは私たちに神様の愛を教えて下さり、その愛を周りの人々に伝えさせるためなのです。私たちに与えられた神様の恵みを愛を覚えて、選ばれた者としてその神様を伝える者として生きて行きたいと思います。
「互いに赦し合う」 エペソ人への手紙4章30-32節
本日の本文は、4章の後半から説明して来た古い人を脱ぎ捨てたことと新しい人を身に着たことについての結論の部分です。そのような結論の部分において、この30節は前から説明して来た内容についての要約であって、前のことろで説明した実践的な勧めを決して忘れてはならない、ということをもう一度強調して説明しています。
先ず、30節には「神の聖霊を悲しませてはいけません。」と書かれています。聖霊は信仰者の内にお住まいになるお方です。その聖霊を悲しませるというのは、どういうことでしょうか。または、人間のどういうことが聖霊を悲しませることになるのでしょうか。それは直接的には、25節以降で説明して来た古い人の姿を捨てることが出来ず、そのまま行なっている、それが聖霊を悲しませることになるのです。25節以降で勧めて来たことは、一般的な道徳・倫理からでも、してはならないことです。しかしそういう観点からではありません。クリスチャンである私たちがより大切に思い、覚えなければならないことは、そのような行ないが聖霊を悲しませることだということです。ですから、いつも聖霊のことを覚えて行ない、神様に喜ばれる者となりたいと思います。
そしてその古い人の行ないの根底にあるのが31節に書かれている「無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなど」であって、それを「いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい。」と教えています。そして私たちは「お互いに親切にし、心の優しい人となり、互いに赦し合う」ことを通して、そのようないっさいの悪意を捨て去ることができるでしょう。それも、また神様がキリストにおいて私たちを赦して下さったゆえにできることなのです。
ですから、神様の赦しの恵みと愛を覚えて、私たちも互いに親切にし、互いに赦し合わなければなりません。これは片方だけがそうするのではなく、私たちすべてが、互いに赦し合わなければならないのです。神様がキリストを通して、私たちに見せて下さった恵みと愛を覚えて、親切で優しい心を持って、互いに赦し合うものになりたいと思います。
「手を伸ばしなさい」 マルコの福音書3章1-6節
韓国のことわざの中で「甘ければ飲み込み、苦ければ吐き出す」ということばがあります。自分の利害のみを考えて、それによって受け入れたりする態度を表す言葉ですが、私たちの信仰もそのような部分がないのか良く考えて見なければなりません。聖書の教えに対して、自分の利益になる事は受け入れてそうでないことは捨ててはいないのか、ということです。本日の聖書には、そのように生きていて、自分たちの規則を固い信念としてもっていた人々が出て来ます。
ある日、イエス様が会堂に行かれました。その時は、安息日であって、イエス様の教えを聞くために多くの人々がその会堂に集まっていたのです。そこには、片手のなえた人もいました。ところが、このような会堂に、イエス様の教えにも片手のなえた人にも、どんな関心ももっていなかったのに、イエス様とその人をじっと見つめていた人々がいました。この人たちは、パリサイ人でした。その時、彼らはイエス様が片手のなえた人をいやすかどうか、それを確認するためにそこに座っていてじっと二人を見つめていたのです。何故なら、それを通してイエス様を訴える口実を得るためでした。
そのことをすべて分かっておられたイエス様は、あえて片手のなえた人を会堂の真中に呼び出して彼の手をいやして下さいました。しかしそのようなイエス様の姿を見ても、そしてイエス様の教えを聞いても、かたくなな心の故に、なえてしまった心の故にイエス様の教えを受け入れることが出来なかった彼らでした。そのようなパリサイ人のかたくなな心を通して、私たちの心は固くないのか良く吟味して見なければなりません。そしてイエス様は固くて渇いてしまった心をもっている私たちに、手を伸ばしなさい、と仰って下さいます。それは私たちに新しい心を与えて下さるためなのです。新しくされた心によって、神様のみこことに従い、その教えを守り行なう者になりたいと思います。
「誠実と良い行い」 エペソ人への手紙4章28-30節
前回から古い人を脱ぎ捨てて新しい人を身に着た聖徒の生き方について学んでいます。その実践的な勧めをするのにあたって、一定の順序に従って語って行きます。先ずは、してはならないという否定的な命令があって、その次にはしなければならないという肯定的な命令があって、最後には何故しなければならないのかという理由、または条件について説明します。それは古い人を脱ぎ捨てて新しい人を身に着たという順序と同じものです。
本日の本文でも、先ず「盗みをしている者は、もう盗んではいけません。」と言います。この「盗み」というのは、自分に与えられていないものに手をつけることを意味します。或いは、自分のものではないものなのに、自分の目的と満足のために使うことであるとも言えるでしょう。非常に自己中心的な考え方を持って他の人のお金や時間、アイデア等を自分のもののように使ってしまうことです。それに対する積極的な勧めは「かえって、困っている人に施しをするため、自分の手をもって正しい仕事をし、ほねおって働きなさい。」という事です。盗みをやめることで終わりではなく、「自分の手をもって正しい仕事をし、ほねおって働きなさい。」という積極的な事が勧められているのです。そしてその目的は、「困っている人に施しをするため」であると説明します。続く四つ目の勧めは、言葉づかいに関することです。先ず、「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。」という事です。ここで「悪い言葉」とは、相手を躓かせたりして、その共同体に大きな悪い影響を与えるものであります。そのような言葉づかいをやめて「ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。」と勧めます。即ち、相手の霊的成長に役に立ち、相手の徳を高める言葉を話さなければならないという事です。
神様が私たちに与えて下さったもので満足して感謝し、良い行ないと誠実をもって毎日を過ごしたいと思います。私たちの心に良いものをもって、互いに助け合い、徳を養い合う者になりたいと思います。
「偽りを捨てなさい」 エペソ人への手紙4章25‐27節
クリスチャンは、古い人を脱ぎ捨てて新しい人を身に着たものです。しかし、このような事を学んで知っていると言っても、すべてのクリスチャンが新しい人を身に着た生き方をしている事ではありません。そこでパウロは、新しい人を身に着たものはどのように生きて行くべきなのかについて、具体的に説明して行きます。
先ず、パウロは新しい人を身に着たものの生き方として、偽りを捨てて、隣人に対して真実をかたることを教えます。そして、その理由として、私たち、即ちクリスチャンはからだの一部分だと説明しています。それは、教会がキリストのからだであり、クリスチャン一人一人がそのからだの各器官であるということです。からだの各器官は互いが互いのために存在し、互いのために働き、そしてそれはからだ全体のためのことになります。からだの一部分である私たちは、自分は自分だけのために存在するのではなく、他の人のために存在するということです。そういうからだの一部分が偽りをもっているというは、自分のことを、そのからだの一部分として考えていないということだと思います。しかし、クリスチャンはキリストのからだの一部分として、互いのために存在する新しい関係をもつようになりましたので、そのからだに助けとなるように語らなければならないのですが、それが真理を語る事です。二つ目に、怒りについて説明しまが、怒りについて三つのことを教えています。それは、怒っても罪を犯してはならないこと、憤ったままにいてはならないこと、そしてその怒りによって悪魔に機会を与えてはならないということです。ですから、クリスチャンは怒る事があっても、その怒りというのが罪深いものにならないように気を付けなければなりません。
本日の本文で、パウロは偽りを捨てて真理を語り、怒っても罪を犯さないようにと勧めています。私たちがこの教えを心に覚えて新しい人を身に着た者として生きて生きて行きたいと思います。
「新しい人を身に着る」 エペソ人への手紙4章20-24節
この手紙を読んでいるエペソ教会の聖徒たちは異邦人でありました。しかし、今は変わりまして前で説明した神を知らない人々の人生とは違うと言うことが強く強調されているのです。先ずクリスチャンは、この「しかし」を覚えたいと思います。私たちの以前の姿は、まさに17-19節で説明している姿のままでありました。しかし、そのような者に神様のみ恵みと大きな愛によって、罪が許され滅びの道から救われて永遠のいのちが与えられたのです。
そのような「あなたがたはキリストを、このようには学びませんでした。」と語ります。聖徒たちの人生とは、前で説明したようなむなしい人生、目標もなくて暗闇を歩んでいるような人生ではないということです。そうではなく、キリストという確実な人生の目標が与えられたということです。そして、このキリストを学んだ学び方についての説明が続きます。その学び方は「ほんとうにあなたがたがキリストに聞き、キリストにあって教えられているのならばです。まさしく真理はイエスにあるのですから。」と書かれています。即ち、その学んだことも、学んだ範囲も、学んだ目的も、ただキリストのみであるということです。その学んだことの中で一つ目は、「人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと」です。私たちも着替えをするためには、まず古い服を脱がなければなりません。脱いでから、新しい服を着るのです。そのように、先ずは古い人を脱ぎ捨てて、その次は、「真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきこと」です。
このように古い人を脱ぎ捨てて、新しい人を身に着た者として生きて行くために、私たちに必ず必要な事がありますが、それは「心の霊において新しく」される事です。私たちが心の霊において新しくされているならば、新しい人を身に着た者としてそれに相応しい人生を生きる事が出来ると思います。毎日、心の霊において新しくして下さる神様の恵みに感謝し、それに相応しく歩む者となりたいと思います。