礼拝メッセージ要旨

1月12日(日) 礼拝メッセージ要旨     古川和男先生

 

「自分の前に神を置いて」              詩編54篇

詩篇54篇は、王となる前のダビデが当時のサウル王から追い詰められ、危機一髪の状況で詠まれたとされる詩篇です。前半には、その心境の必死さが滲み出ています。「お救いください、弁護してください、聞いてください、耳を傾けてください」と祈願が四つ続くのです。                        しかし、後半は調子が一変します。この飛躍・変化のきっかけは、3節「彼らは自分の前に神を置いていないからです」でしょう。神への恐れがないと非難した後、果たして自分は神を前に置いていると言い切れるのかと自省したのではないでしょうか。それが、4節「まことに、神は私を助ける方、主は私のいのちをささえる方です。」へと通じたのです。神は、大声で祈らなければ助けてくれない方ではない。私のいのちなど構われない方ではない。悪を必ずや正しく裁かれ、報いられるお方。そう思い至ります。6節の「進んでささげるささげ物」も、感謝や誓願といった条件なしに、進んで神への賛美と献身を表すささげ物です。自分の置かれた状況の解決、改善以上に、無条件に主を主とする者の、揺るがない思い、献身をよしとするのです。                    キリスト者が「ノンクリスチャンは本当の神を知らない」と批判するのは簡単です。けれども私たちは、真の神を知り、恐れる者としての心を戴いているでしょうか。イエス様は、世にあっては艱難があります、と断言されました。病気や別れ、暴力や孤独、様々な災いの中で、勇気をもって歩ませてくださるのが、主イエスです。                                                                                      ダビデと同様、自分の中にある様々な感情-傷、妬み、訴え-を明るみに出して祈りましょう。立派な祈りや奉仕や伝道、成功や勝利よりも、心の深いところで主と出会い、傷や罪や弱さを抱えた自分と、主が共にいてくださる幸いを求めましょう。祈っても、ひどい状況は変わらず、また自分自身の罪や歪みも変わらないとしても、主に深く祈り、主との間に本心をさらす交わりに生き始めることが、大切なのです。

1月5日(2014年第一主日) 礼拝メッセージ要旨

 

「慰めの子―ノア」                創世記5章28~32節

 人間の一生は、最終的には二つの言葉で言い尽くすことができます。その言葉とは「生」と「死」です。「私は、主によってひとりの男子を得た。」(創世記4:1)という、人類最初の母の喜びの声を耳にし、それに続く10人の父祖たちの名が記されたこの系図は、「息子、娘たちを生んだ。」という「生」の言葉と「彼は死んだ。」という「死」の言葉が、織り合わされ、単調な響きをもって何度も繰り返し記されております。すなわちこの系図は、人間の生誕の記録だけではなく、死の記録でもあるのです。今や私たちは、この系図を通して、人間の本質的な姿、「われわれは生まれ、そして生きる者。」であることと、「われわれは必ず死ぬ者。」であるという、この二つの事実の前に立ち尽くすのです。その系図の最後に登場する「ノア」は、名前の意味するところの「安息」「休息」「慰め」の子として誕生します。しかも「ひとりの男子」(創世記5:28)として、特別な期待、特別な喜び、特別な意味の男子として生まれたのです。そしてこの「ひとりの男の子を生んだ。」(創世記5:28)という言葉と、「この子は慰めを与えてくれるであろう。」(創世記5:29)という言葉は、重要な意味を持って私たちに語りかけます。何故ならこれらの言葉は、将来、神のひとり子として来られる、イエス・キリストを予表するものだからです。あのイザヤが「ひとりの男の子が私たちに与えられる。」(イザヤ9:6)と預言し、ヨハネが「神は実にそのひとり子をお与えになったほどに…」(ヨハネ3:16)と語った言葉につながり、「慰め」はイザヤ40章1節の「慰めよ。慰めよ。わたしの民を。」のメシア預言に結び付くからです。ノアは堕落した人類を洪水によって滅ぼされる神の裁きの中で、神に従順に従い箱舟を備えることによって、その家族たちに救いと安息を与えるという、自らの生き方を通して人類に真の休息と慰めをもたらす、イエス・キリストを私たちに指し示したのです。