「キリストと共に」 エペソ人への手紙2章1~7節
本日のみことばには、霊的に死んでいる事と生きている事が良く説明されています。霊的にと言いましたので、息をしているのかどうかという肉体的な事ではありません。しかし、その霊的状態がやがて私たちに現実として現れるのです。 1-3節では霊的に死んでいる状態について説明します。人は自分の罪過と罪との中に死んでいます。このように霊的に死んでいる人はこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者に従います。そして自分の肉と心の望むままを行ないます。そのような人は、神様を見上げる事も、神様を見つける事も出来ません。そして神様に従う事も出来ないし、死んでいるという表現から分かるように神様に反応する事も出来ないのです。人は罪に対して、そして神様に対して自由ではありません。人は罪から自らの力で逃れる事が出来ないし、自らの力で神様に向うことも出来ない存在なのです。人は罪を犯かさない自由もなくて、自分の意思で善いものを選ぶ事も出来ない状態にいます。それが霊的に死んでいる人の姿なのです。 しかし、4節からはそのような人に希望が見え始めます。このような死の状態にあった私たちを神様が憐れんで下さったと言います。そして神様ご自分の愛によって救いを与えて下さったと言います。このように、4-7節では神様の憐れみと恵みによって、死んでいた人にいのちが与えられた事について説明します。神様は私たちをキリストとともに生かし、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせて下さいました。その目的は「あとに来る世々において、このすぐれて豊かな御恵みを、キリスト・イエスにおいて私たちに賜わる慈愛によって明らかにお示しになるため」であります。 神様の豊かな恵みに感謝し、私たちが救われたという事には神様の大きな目的があるという事を覚えなければなりません。私たちを通して栄光を受けられ、そしてご自分の豊かな恵みをお示しになる神様を覚えたいと思います。
「広がりゆく神の国」 ルカの福音書13章18~21節
枯れ枝に烏とまりたりや秋の暮 松尾芭蕉 ある人がこの句を英語に訳そうとして、はたと困ったそうです。枯れ枝に止まっているカラスは、一羽であるのか、何羽もいるのか、わからなかったからです。日本人ならこの句は寂しい句ですから、群がって止まっているとは誰も考えないと思います。さて本日の福音書の譬話では、空の鳥が一羽だけ止まっているのではないのです。沢山の鳥が止まっているのです。原文では空の鳥は複数形です。つまりやがて主の下に憩うことができる、もろもろの世界の民を、ここですでに言い表しているのです。蒔かれた福音の種が、いつの間にか成長して、気がついた時には驚くような広がりを見せていることを示しています。またパン種の譬は、イースト菌が次第に力を表し始めるように、神の支配が世界中に及び、その影響を受けない処がないことを教えています。「全体がふくれました」(ルカ13:21)ということは、パン種がその形を失い死滅したことを意味します。そしてこのことは、まさに主イエスのご生涯を語ってはいないでしょうか。「パン種」「からし種」は何よりも主イエスご自身の働きのことを意味しているということです。主イエスの救い主としてのお働きは、ユダヤの地で、その活動期間は3年です。主イエスの影響を受けた人々の数は多くありませんでした。古代の歴史書には、その名が記されず、全く無名の存在でした。多くの業績を称讃されたローマの皇帝たちに比べれば、全く無きに等しいものでした。しかしキリスト教は、今や地の果にまで広がったのです。そしてそれは、イエス・キリストが福音という「からし種」を、あなたの心の庭に蒔かれ、「パン種」を、あなたの心の粉に入れられた時、もはや誰も制止できない、キリストの御業が始まったことを示しているのです。そのことは、今、私どもが集まり、一つの群れとして、ここに礼拝を守り、神を讃美する姿において、最もよく現わされているのです。
「井戸のそばの女のように」 ヨハネの福音書4章13~14節
ある日、イエス様はユダヤを去って、ガリラヤに行きました。しかし、聖書には「サマリヤを通って行かなければならなかった」と書いています。当時のユダヤ人はサマリヤ人を犬のように考え、差別したので、彼らと会うことは徹底的に避けました。ですから、エルサレムへ行くためにはサマリヤを通る道が最寄りの道であるにも関わらず、遠回りをするベレヤを通って行く道を使いました。 ですから、普通のユダヤ人であれば絶対行かない道をイエス様は意図的に入りました。なぜでしょうか。その理由はこの井戸のそばで出会うサマリヤの女のためでした。誰も関心を持ってないし、他の人から批難と差別を受けているし、人生がめちゃくちゃになった一人の女のためにイエス様は砂漠の暑い道をひたすら歩いてこの町に来られました。イエス様は多くの人々が待っている大きな町に行かなかったです。 そうです。だれも目には留めない小さな町のサマリヤの女にあうために来られるイエス様は今日も、だれも目には留めない小さな私たちに出会うために来られるのです。どんなに惨めで、問題だらけであるとかは関係なく、イエス様が来てくださるのです。神様の御心は私たちに注がれているのです。それが福音です。 イエス様はもっと素敵な人で何か出来る人より、私たちみたいな平凡で惨めな人に関心があるのです。あまり役に立たない者を愛してくださるのです。一方的な愛を持って、井戸のそばで出会ったサマリヤの女を愛したイエス様の愛は、私たちにもそのように愛しています。私たちはその一方的な愛で招かれ、今、ここにいるのです。 今日もイエス様は私たちに来られます。そして、ここに真理があり、命があり、永遠の命の泉があると招いてくださいます。イエス様は私たちに対して希望を持っています。イエス様は決して私たちを諦めることはありません。むしろ、期待しています。皆さん、そのような暖かいイエス様のお招きに答えませんか。
「自らを滅ぼす人間」 創世記6章9~13節
「ひとり ただくずれさるのを まつだけ」この言葉は、7月の夏の暑さが残る夕暮れの空に、自ら身を投げて12才の生涯を閉じた一人の少年が残した詩の手帖の表紙に書かれていた言葉です。この少年は精一杯生きた。しかし生き続けることはできませんでした。この少年はくずれゆく自分をどんな思いで見つめていたのでしょうか。神もまた洪水を前にした人間の大地を、ひとり見つめておられます。その状況は「ひとり ただくずれさるのを まつだけ」の腐敗し、毒を含み、悪臭を放っている深刻なものでした。その状態について聖書は、「地は、神の前に堕落し、地は暴虐で満ちていた。神が地をご覧になると、実に、それは堕落していた。すべての肉なるものが、地上でその道を乱していたからである。」(創世記6:11~12)と記されております。その堕落は、神が人を創造された事を悔やみ、心を痛められたほどでした。(創世記6:6)そして、神はノアに「それで今わたしは、彼らを地とともに滅ぼそうとしている。」(創世記6:13)と仰せられた。実に衝撃的な宣告です。創造の時に、神から与えられた神の似姿を失い、人間自らが堕落している。神が見ておられる眼の前の光景は、このように 悲愴なものであり、神は彼らを滅ぼすと決意されたのです。それは、心を痛められ、苦しみ、人を造ったことを後悔されるという、神の思いの中での決断だったのです。しかし、このような堕落した時代の中でさえ、神はノアを通して恵みと祝福をお与えくださいました。洪水は根絶であると同時に救いなのです。それは審きであり、同時に恵みなのです。洪水は破壊であり終わりです。しかしそれは、新しい出来事の始まりなのです。ここで遂にノアが登場します。彼は「神とともに歩んだ。」(創世記6:9)人であり、「正しい人」であり、神の命令には完全に従う「全き人」で、非の打ち所のない人でした。ノアは神の救いの器であり、恵みの器であります。神の審きの後の新しい出来事の始まりを告げる者として登場するのです。神が滅びから守られた一人の人として、やがては、救い主イエス・キリストの救いの出来事を指し示す者として、神はノアをお用いになられたのです。
「整えられる教会」 使徒の働き6章1~7節
産声を上げたばかりの子どもが、産着でただそこに寝かされているように、最初の教会も、イエス・キリストを信じた人々が、ただそこに集っているだけでした。しかし信仰のいのちは躍動しておりました。けれども教会としての整えられた姿はありませんでした。赤ちゃんが産着から、成長と共に体に合わせて、外側の服装を変えていくように、教会も年数を重ね、人数が増えるに従って、教会内にいろいろな問題が生じてまいります。その都度教会は、試みの中で成長し、しかるべき組織や制度がつくられ、教会としての姿が整えられていったのです。その最初の教会の姿が本日の聖書の箇所です。事の始まりは食料の「毎日の配給で」(使徒6:1)苦情を申し立てる人が出てきました。「喜びと真心をもって、食事をともにする」(使徒2:46)ような交わりを続けてきたはずのエルサレム教会が何と実につまらない「食べ物」の分配のことで、教会は分裂の危機に直面したのです。しかしこの問題の背後には、エルサレム教会がかかえていた、ある深刻な問題がありました。それは「ギリシャ語を使うユダヤ人」と「ヘブル語を使うユダヤ人」との間にあった対立でした。両者はユダヤ人であることと、ユダヤ教徒であることは同じでも、日常語の違い、生活習慣や思想、信仰理解でも違いがあったのです。この二派の対立は、信仰論や神学論、礼拝論や教会論のような本質的なことから問題が表面化したのではありません。たかが食料の分配のことでした。しかしこのままでは、命取りになるのです。ではエルサレム教会はこの問題についてどのように対処したのでしょうか。12使徒たちは、本来の職務である、神の言葉に仕えることが、後回しになり、日常の雑用、用務に追われているのは、神の目から見ても好ましいことではないと判断し、この問題の処理にあたる7人を選びました。こうして教会の中に初めて、ある目的のために「職務」が生まれたのです。こうして教会は使徒たちが、御言葉に仕えることを何よりも優先する体制を整えたことにより、「神のことばは、ますます広まって行き、エルサレムで、弟子の数が非常にふえて行った。」(使徒6:7)のです。こうして主の教会は試みの中で整えられつつ、成長をしていったのです。
「証人」 マタイの福音書16章24~27節
ある日、イエス様は弟子たちに「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」。と十字架の道とご自身に従う者にもその道があることを教え始めました。弟子達はイエス様の力による奇跡と働きを見て、これから新しい時代が来ると思い、自分たちの人生にもすばらしいことが待っていると期待しました。彼らはそんなことなんて夢にも見ていませんでした。 イエス様は私たちの罪のため、十字架で、私たちが、本来受けるべき全ての裁きを受けました。イエス様の十字架によって、私たちは罪から解放され、永遠の命を得るようになったのです。イエス様を主と告白した瞬間、私たちはあの十字架でイエス様と共に死んだのです。昔の自分は死んで、今はイエス様が私たちの内に生きているのです。それを覚えるために自分の十字架を負うのです。 弟子たちは復活のイエス様と出会った後、彼らの生き方は完全に変わりました。弟子達はイエス様を証した理由で多くの苦難と苦しみを受け、命の危険にも沢山会いました。それは人々に「自分の罪から悔い改めなさい」と教えることであり、神様の国の到来を宣言する生き方であったからです。人々はそれを喜んで受けることより、むしろ迫害しました。しかし、彼らはそれを恐れることなく喜んで、その道を最後まで走りました。多くの信仰の先輩達や日本もキリシタン時代、多くの人々が 信仰のために命を捨てました。彼らも私たちと同じく命は一つであったのに、なぜでしょうか。それは「肉は滅びますが、永遠に滅びることない神様の国」に対する希望があったからです。この地上の営みが終わると報いを与えて下さる神様に対する信頼があったからです。それが、十字架の道です。その十字架の道の終わりにはイエス様が待っています。イエス様は優しい声で、私たちにこう言ってくださるでしょう。「ご苦労様、よくやった、忠実な僕よ」と。
「輝かしい主の御業」 ルカの福音書13章10~17節
「静まって、わたしこそ神であることを知れ。」(詩編46:10)「静まって」とは「やめよ」という意味で、自分の活動を神の前にやめるということです。中世の人々はここに余暇(レジャー)の本質があると考えました。神の前に神と共に憩う、そして自分と世界とを見つめ直し、永遠の神の前に自分自身を取り戻すこと。従って余暇とは礼拝と深く結びついた行為なのです。礼拝とは、神を喜ぶ聖なる時であります。6日の間、世界を造られ、7日目に世界をご覧になり、「はなはだ良かった。」と祝福された神。静まって世界を見つめる神がそこにおられます。しかもこの日、7日目、神は決して遊んではおられません。6日間の業とは全く違った仕事をしておられます。それは「祝福」と「聖別」です。「祝福」とは、神の創造の御業をほめ、喜びを共にし感謝することです。「聖別」とは、神とのかかわりを持ち、神に献げられることです。そして、真の安息日(礼拝)は、この二つが欠けては成り立ちません。本日の聖書の箇所は、まさに、主の日の礼拝の意味が問われている箇所です。 主イエスはある会堂で教えておられた時、18年間も腰が曲がったままであった女を見て、「あなたの病気はいやされました。」と言われました。「あなたはすでに病気から、もう自由になっている。あなたを18年間捕えてきた病気からは、もう自由です。」そう宣言されたということです。ここにすでに神の支配、神の国がこの女の内側に訪れているのです。しかしこの出来事が会堂管理者との論争になりました。問題は女は自分の身の上に現わされた、キリストの輝かしい御業を通して、神の支配が始まっていることを知り、神をあがめたのに対し、会堂管理者がその事実を見ようとしませんでした。女は主イエスの前に居ました。そして主イエスは、この女に手を置かれました。会堂管理者は何を見ていたのでしょうか。私ども自身も失われた者でありました。体は健康であっても、心は曲がり全く伸ばすことが出来ない者です。その私どもに主イエスは声をかけて呼び寄せてくださり、手を置いてくださいました。「神の訪れの時」は、この私の身の上にも実現したのです。この悔い改めと主イエスのなさった全ての輝かしい御業を知った時、私どもは真に神を礼拝するものとされるのです。
「主の愛と恵みの力」 創世記6章1~8節
「あなたは、いったいなんということをしたのか。」堕落後の人間を描く創世記の各章に、通奏低音のように流れる、神の嘆きの言葉です。(創世記3:13 創世記4:10)人間は「神の像」を受け継ぎ、同時に罪を犯す「人間の像」も受け継ぎました。神の祝福の中に命が誕生し、その命は受け継がれ人は増え続けます。けれどもアダム以来の人間の罪の性質もまた受け継がれ広がっていくのです。その状況を6章は「主は地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。」(創世記6:5)と描き、「それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。」(創世記6:6)と記します。6章は「あなたは、いったいなんということをしたのか。」という、この言葉を、神の後悔と心痛として表現します。神さまは人間を見ながら、悲痛な嘆きをあげておられるのです。そしてその都度、人を裁かれます。しかし神の裁きには、必ずその救いが隠されているのです。それがノアを通して具体的に示されていくのです。そしてその救いは、イエス・キリストが十字架にかかり、殺されるという姿において、私たちに与えられたのです。それは、心に思い計ることが非常に悪いことばかりの、人間の罪に対する裁きを、主イエスが身代わりになって受けられたことを意味します。しかも「わが神、わが神なぜわたしをお見捨てになったのですか。」(マタイ27:46)と叫ばれた言葉にあるように、主イエスは、神に見捨てられたのです。罪なき神のひとり子が神に捨てられたのです。見捨てられる罪人の罪が赦されるためです。その時、「あなたは、いったいなんということをしたのか。」という言葉は「神よあなたはいったいなんということをされたのですか。」という、神への驚きと感謝の言葉となって変えられていくのです。
「悔い改めの実」 ルカの福音書13章6~9節
来年は 伐ると決めし木 帰り花 「帰り花」とは冬の季語で、時期はずれの花のことです。咲き残りの花が開花する場合と、春に咲くべき花が開花する場合とがあります。伐られるとわかっている運命で、せめて最後の花を咲かせて終わりたい、あるいはまだまだ花を咲かせる命はある。出来ることなら残してほしいと願って、一輪咲かせたのか、読み手の受け取る心によって、正反対の意味になります。しかし主イエスが語られた、たとえ話に登場するいちじくの木は、一年後に伐り倒されると決まっているのに、その木が実を結んだか、そうでなかったのか全く明らかにされないまま終わっております。最後の結末が何一つ書かれていないのです。何故なのでしょうか。一般にたとえ話には「だから」というまとめや、適用を示す言葉があるのですが、このたとえ話にはそれがないのです。従ってそのことは、このたとえ話の中心点が結果に置かれているのではなく、番人の言葉そのものにあることを示しています。もう一年悔い改めの時を延期してほしいと願う、番人の言葉とその存在に驚きの目をもって注目することが求められています。そして実を結ばない、いちじくの木に対して、特別な手立てを尽くす番人の姿に、明らかに主イエスの姿が見えてきます。神は主イエスを通して、すでに定められた裁きを覆し、もういちど悔い改めの機会をお与えくださいました。そのために考えられないほどの憐れみの手立てを尽くそうとしておられる方だということが見えてきます。主イエスがしようとされていることは、そのような悔い改めへの招き、異常といえるほどの愛の招きだったのです。そしてこのたとえ話の結論は、私たちの手に委ねられており、私たちが自らの責任において、実を結んだのか、やはり伐り倒され悲惨な裁きを受けたのか、この結末を書き記さなければならないのです。
「悔い改めへの招き」 ルカの福音書13章1~5節
3月11日という日付は、東日本大震災という、地震、津波、原発事故の三重の惨事に見舞われた出来事と固く結びついて、決して忘れることができない日付です。あの時、私たちは、なぜそのような不幸な事件が、この世の中に起こり、なぜそのような大災害になったのか。後からどう説明しても、この深刻な問題を前にして、茫然と立ち尽くすだけでした。それと同じニュースが、神の審きを語る主イエスのもとに届いたのです。ガリラヤからの巡礼団の何人かが、エルサレムの神殿内でピラトの兵士たちによって殺され、その血が彼らが献げようとしていた、犠牲の動物の血に混ぜられたのです。さらにシロアムの塔の崩壊という、突然の事故によって18人が死んだというのです。前者はある程度予測され予期された人災であり、後者は全く予期せぬ不慮の事故で自然災害でした。しかし主イエスはこれらの出来事について、その意味を分析したり、説明したりはなさいませんでした。ただ結論のことばとして「わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。」(ルカ13:5)と言われるだけです。この言葉は主イエスにとっては大切な言葉でした。3節、5節と繰り返し語られた言葉です。ここで主イエスは私たちに180度の転換を求めておられるのです。それは「いのちに至る悔い改め」と言うことができます。「悔い改め」は神の贈り物です。永遠のいのちを保証する霊的な恩恵の一つです。それは神の驚くべきあわれみです。そのため神は、そのひとり子イエス・キリストをその使節としてお送り下さり、人々に悔い改めて信じなさいと呼びかけ、彼らを神のもとに導くために骨折って下さいました。その主イエスの究極の姿がキリストの十字架だったのです。