「ノアの虹ー永遠の契約」 創世記9章8~17節
「長く生き わびと感謝の原爆忌」 原 ひさ子 69年目の敗戦の日を覚える夏を迎えました。それは広島、長崎への原爆投下から69年目を迎えたということです。「彼らの足は血を流すのに速く、彼らの道には破壊と悲惨がある。また彼らは平和の道を知らない。彼らの目の前には、神に対する恐れがない。」(ローマ人への手紙3:15~18)とパウロがきびしく責め立てる、人間の神に対する敵対行為が引き起こした、愚かな出来事でした。そしてこの69年前の惨事は、ノアの洪水と重なるものでした。ノアの洪水の時も「地上に人の悪が増大し、その心に計ることが、みないつも悪いことだけに傾くのをご覧になられ、神は地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められ、人を地の面てから消し去ろう。」(創世記6:5~7)と洪水を起こされました。放っておけば自滅する人間をご自身の手で滅ぼし、ノアとその家族によって、新しい世界を造り出し、二度と洪水によって滅ぼさないという契約を立ててくださったのです。そのしるしが、雲の中にくっきりと浮かび上がる七色の虹でした。この虹の契約は、「わたしの虹を立てる。それはわたしと地との間の契約のしるしとなる。」(創世記9:13)と記されておりますように、神が一方的に契約を立て、その虹を見るたびにご自身が立てられた契約を「思い出」され、「そうだ、わたしは契約を立てた。だから洪水は起こさない。二度と滅ぼさない。」と新たに決心してくださるのです。これはもう一方的な恵み、赦しと忍耐に基ずく恵みとしか言いようがないことです。たじろぐ人間に「わたしは、そうする。」と宣言された、神の恵み、あわれみでした。ですから、ある人はこの虹の契約を「私たちの慰め」と呼び、ある人は「天からの贈り物」として受け取り、「虹」は、罪の黒雲と、そこに射す神の光の間に美しく神の深い愛を示す、虹なる救い主イエス・キリストの象徴とされてきたのです。
「命は神のもの」 創世記9章1~7節
童謡詩人「金子みすず」の詩に、「お魚」と題する短詩があります。 「海の魚はかわいそう お米は人につくられる 牛は牧場で飼われる 鯉もお池で麩をもらう けれども海のお魚は なんにも世話にならないし いたずら一つしないのに こうして私に食べられる」 この詩には、人と動物、植物のいのちの区別はありません。みすずは人のいのちと魚のいのち、どちらが大切かというのではなく、いのちは同じということを歌っているのです。そしてこれらのいのちをお造りになられた神さまは、これまで草食だった人間に(創世記1:29)本日の箇所で肉食を許可しておられます。(創世記9:3)しかし、肉は、そのいのちである血のあるままで食べてはならないのです。なぜなら血は命であり、その命は、神さまのものだからです。このようにして私たちを創造された神さまは、いのちを守るためには、他の弱いいのちを食べなければならないという、根源的な悲しみを私たちに与えられました。もう、これ以上の悲しみをつくらないように生きなさいということです。そしてこの大切ないのちについて記されている創世記9章1~7節は、神さまが創造の始めに人類を祝福された「生めよ、ふえよ。地を満たせ。」(創世記1:28)という言葉で始まり、同じ祝福で締めくくられているのです。「生めよ。ふえよ。地に群がり、地にふえよ。」(創世記9:7)と神さまに祝福された人間、それは、洪水という裁きを経て、罪を悔い改めて、献身の礼拝を捧げるノアとその子どもたちでした。私たちキリスト者は、キリストの死という罪に対する完全な裁きと、キリストの復活という新たな創造の御業に、信仰によって与えられた者たちです。そういう私たちに、神さまは今日も新たに祝福を与え、キリスト者が地にふえ広がるべく励ましてくださるのです。
「探し求める神」 ルカの福音書15章8~10節
デンマークが生んだ偉大な思想家キルケゴールに「死に至る病」という著書があります。キルケゴールは「死に至る病」とは「絶望」のことであると言いました。キルケゴールにとって「絶望」とは、普通の用語とは違って、人間自身が神を離れ、神を見失っている状態を意味しておりました。彼はキリスト教的な意味では、死でさえも「死に至る病」ではないのです。ましてや苦悩、病気、悲惨、災い、苦痛、憂い、悲しみなど、およそ地上のこの世の悩みと呼ばれる一切のものも、キリスト教的な意味では、決して「死に至る病」ではありません。そうではなく、人間が神を離れ、神を見失っている絶望的な状態こそ、「死に至る病」なのだと言いました。特に自分が絶望していることを知らないでいる。自分が人間として魂をもって生きていることを意識していないということこそ、まさに絶望なのだ。病気を病気と感じる間はまだいい。「死に至る病」とは、自分が死ぬべき病を身に負っていながら、自分で、その病を全く感じていない状態。これこそが深刻な「死に至る病」であると、彼は言うのです。本日の聖書の箇所で、主イエスが語られた「失われた銀貨」の譬は、自分は迷っているなどと全然意識していない。全く自分の存在に対して、何も考えようとしない死んだ状態。それが銀貨の状態と同じであると語られるのです。この「失われた銀貨」の譬は、失われたということに、強調があり、その深刻さがあります。しかし一方では、またその銀貨を探すという、追及の徹底さを描くことで、神の姿がこの譬には語られているのです。失われた銀貨のように、さまよう罪人である私たちの魂を、とことん、追いかけてやまない、まことの神の姿がそこにあります。「渋柿の渋がそのまま甘味かな」という俳句のように、私どもの罪が深ければ深いほど、それだけキリストのすばらしい愛を受けるのです。今日もとことん追求してやまない神の愛、キリストの愛があなたに迫っています。
「一匹の羊に集中する愛」 ルカの福音書15章1~10節
ルカの福音書15章には、有名な三つのたとえ話が並んでいます。「失われた羊のたとえ」(ルカ15:1~7)「失われた銀貨のたとえ」(ルカ15:8~10)「失われた息子のたとえ」(ルカ15:11~32)です。そして、この三つのたとえ話に共通している主題は、無くなっていたもの、離れていたものが見つかり、帰って来た「喜び」です。この三つのたとえ話の、それぞれの終わりが「喜び」の言葉で結ばれていることが、その事を言い表しております。私たちはこのたとえ話では、あまりにも聞きなれ、知りすぎているため、どうしても一匹の羊の方に注目しがちですが、遊牧の民であるユダヤ人にとっては、99匹は一匹と同様に、いいえ一匹とは比較にならないほどに大切なものでした。しかし主イエスはあえて「99匹を野原に残して」とおっしゃったのです。この主イエスの言葉には、数や計算を越えた深く激しい愛が込められているのです。「失われた一匹」に集中して、愛が注がれています。それはたとえ「99匹」を野原に残してでも捜しに行く、大切な「一匹」だと言うのです。私たちの想像も及ばない程に「99匹の羊」の大切さを知っている人たちが聴いているただ中で、主イエスはあえて「99匹の羊」を、野原に残してでも失われた「一匹の羊」を捜し求めると語られたのです。神の人間への愛、真実な羊飼いの羊への愛は、そのようなものだとこのたとえ話は語っているのです。 人は罪を犯しながら年を重ねていきます。しかし、その失われた羊のような私たちを、見つけるまで捜して歩きまわる羊飼いとして、主イエスはこの世にお生まれ下さいました。私たちは、神の目の前には、弱い欠点の多い者でありながら、大切なひとりとして、かけがえのない一人として、愛されていることを覚え、感謝しつつその恵みに応える歩みをしてまいりましょう。
「心の思いを変えられる神」 創世記8章20~22節
今、日本で公開されている映画に「ノア」があります。文字通り聖書の「ノアの洪水」を題材にした映画です。その副題が「約束の箱舟」となっております。「ノアの箱舟」が別の呼び名で「信仰の箱舟」「救いの箱舟」「希望の箱舟」と言われているように、「約束の箱舟」も別称としてふさわしい呼び名です。それは「わたしはあなたがたと契約を立てる。……もはや大洪水が地を滅ぼすようなことはない。」(創世記9:11)という「ノアの契約」の内容を言い表しているからです。その「ノアの箱舟」が私たちに語る主題は何なのでしょうか。一つは旧約聖書全体の主題でもある「残りの者の思想」というメッセージです。すなわち本来、神の裁きにより、滅ぼされるべきものが、ただ神の恵みにより生かされ残されている。そのことを創世記7章23節の言葉が簡潔に伝えております。「主は地上のすべての生き物を……地から消し去られた。ただノアと彼といっしょに箱舟にいたものたちだけが残った。」 第二の主題は、本日の聖書の箇所に示されている「神の心の変化」というメッセージです。このことは創世記6章5~8節と、洪水が引いた後の8章20~22節を注意して比較するならば明らかです。6章では、神は人を造ったことを後悔し、すべてを消し去ろうと決意されるのですが、洪水の後の8章では、神は「わたしは決して再びわたしがしたように、すべての生き物を打ち滅ぼすことはすまい。」(創世記8:21)と決意されるのです。この神の言葉は一見矛盾しているように思われます。神は現状を見つめられ「人の心の思い計ることは、初めから悪であるからだ。」(創世記8:21)というお考えを持たれつつも、しかし、にもかかわらず、神はもう二度と人に対して、この地をのろうことはすまいと約束されておられます。つまりこの大洪水によって変わったのは人間ではなく、神ご自身であられたということです。その「神の心の思いの変化」にこそ、「ノアの箱舟」の中心のテーマがあり、洪水後の人間は、その神の恵みのもとに置かれて生きるのです。
「オリーブの若葉―希望のしるし」 創世記8章1~19節
聖書、特に旧約聖書には重要なことを印象的に言い表すために様々な象徴が用いられています。その中でも興味深いのは、「水」の意味する内容です。大きく分けて旧約聖書では二つの意味を持っております。一つは、水とは、生命の象徴であります。それは旧約聖書の地理的背景が「砂漠地帯」であることから容易に想像がつきます。他方、その同じ水は旧約聖書では、もう一つのイメージを持っています。それは、破壊と破滅をもたらすものの象徴です。「大水」あるいは、「洪水」は、人間の経験する危機を象徴するものです。それを表しているのが「ノアの洪水」の出来事でした。ノアの600歳の2月17日に始まった洪水は、翌年の2月27日に終わるのです。丸々一年間、地球は水で覆われたのです。そしてノアが601歳の時、地はかわききったのです。それを聖書は「むしり取ったばかりのオリーブの若葉」が鳩のくちばしにあるという印象的な言葉で表現しました。藤井武はこのオリーブの若葉について「それは数ふるに足らぬ小さき緑の一葉に過ぎません。けれどもその中に、来るべき世界の全部が籠っていました。是さへあればもう大丈夫であります。ノアはまだ飛石のやうな山々の頂きのほかに、何らの陸地をも認めませんでした。併し、この一葉を手に入れた時、彼は確実に新しき国を受け嗣いだのでありました。」と、感動的な言葉で表現しました。そうです!「かわききった大地」は、命を生み出さない荒廃した土地ではなく、豊かに命を生み出す「かわききった大地」なのです。徹底的な裁きを経た後に、神の赦しの中で新たに生きることが出来るように、神がお与え下さった大地なのです。それは、神が天地創造の時、「かわいた所を地と名づけ」(創世記1:10)、その地を豊かな実のりをもたらす地とされたこと(創世記1:11~12)の再現なのです。
「主イエスの弟子であること」 ルカの福音書14章25~35節
「いのちが、一番大切だと思っていたころ、生きるのが苦しかった。いのちより、大切なものがあると知った日、生きているのが嬉しかった。」星野富弘さんの言葉です。人間が「生きている」ということと、「生きていく」ということとは、ただ一字違うだけですが、実は大きく違うのだということを、私たちは知っております。星野富弘さんも、ただ生きているだけの自分でなく、生きていくことができる自分に気付いた時、そこに大きな喜びが与えられ、その喜びを詩に表現されたのです。その「生きていく力」は、命より大切なものがあると知った時に与えられたのです。そのように、主イエスの弟子になるということは、「生きている」ことから、実は「生きていく」ことに変えられるということなのです。その主イエスの弟子になると決めたなら、最後まで主イエスに従うという見通しをはっきり持つことが大切であることを、二つのたとえで主イエスは話されました。その事は、二つのたとえに共通の言葉として使われております、「まずすわって」(ルカ14;28、31)という言葉に表されております。これから自分が歩もうとする道について、十分考え、知り、決意して従うために「まずすわって」であります。そして、主に従う弟子としての歩みは、よく考えて、永続的に生涯かけて従うことが求められておりますから「まずすわって」であります。その上で「自分の十字架を負って、わたしに従え」(ルカ14:27)という命令になります。しかし無理矢理に、こうすべきであると、引き込まれるものではなく、私たち一人一人が、それぞれ自由に選びとることが許されており、その自由の中で、主イエスに従うことがあなたの願いであり、祈りであり、信仰であるならば、自分を捨て、自分の十字架を負って従って来なさいと勧められているのです。
「弟子の覚悟」 ルカの福音書14章25~35節
本日の聖書の箇所には、「わたしの弟子になることはできません。」という、主イエスのお言葉が三度繰り返し出てきます。(ルカ14:26、27、33)まず主の招きに応えて、信仰の道に生きる決断が求められます。(ルカ14:26)次に「自分の十字架を負って、主イエスについて行く」という信仰生活の覚悟が求めらます。そうでなければ「わたしの弟子であり続けることはできない。」(ルカ14:27)と、主イエスは断言されます。そしてご自分の弟子になるために、憎まねばならないものを数え上げられます。この場合の「憎む」という用語は、「より少なく愛する」という意味を含んだ言葉です。そこには家族の名が上げられ、父から始まって、子供、兄弟、さらに自分のいのちまでに言及されております。要するに家族の全員であり、ひとりの例外も許されないのです。家族との親密な関係を第一にすることは、弟子としてふさわしくないと言われるのです。ずいぶん厳しい言葉であり、命令です。ここで主イエスが問題にされているのは、主に従うためにそれらの人々との親しい関係から、どれだけ自由になっているかということです。自分のいのちまでも捨てる自由を持っているかが問われているのです。人間としての最も基本的な家族との関わり、そして自分との関わりの絆をきちんと、一度、断ち切ることが求められているのです。人は誰でも苦しみの少ない人生を願います。今ここで自分の十字架を負って主に従うことは、自分も主イエスのように処刑されるという、その苦しみに会うかもしれないということです。主イエスの十字架の道は、苦難と神にさえ見捨てられる歩みでした。しかし、私たちはどんなに苦しみに会っても、決して見捨てられることはありません。それゆえ、私たちは、主イエスと共にエルサレムへの最後の旅に行くことができ、「主よあなたの弟子として、私たちの信仰の歩みの終わりまで導き、全うさせてください。」と祈ることができるのです。
「神の国の食卓」 ルカの福音書14章15~24節
「盛大な宴会」のたとえ話は「さあ、おいでください。もうすっかり、用意ができましたから。」という招きの言葉から始まります。その宴会は神によって準備されております。主催者が十分用意を整え、招待する。そこから始まるのです。普通の食事は、私たちが用意をします。しかし、神の国にたとえられるこの宴会は、主催者である神が用意されるのです。ですから私たちは何もする必要はなく、ただ来て食事をいただくだけでいいのです。主イエスはそれを「盛大な宴会」と呼ばれました。なぜなら、大きな愛によって計画され、準備され、実施されたからです。それには、大きな必要を満たし、高価な代価が支払われたのです。ルカ14:17節では、二つの短い言葉、「もう」と「すっかり」が目につきます。神は失われた罪人を救うために、なすべきことをすべてなさいました。主イエス・キリストは十字架の上で贖いの業を完了されたのです。食卓には、私たちに必要なものすべてが並べられています。すなわち「赦し、平安、喜び、平和、永遠の命」そしてもっと多くのものです。それらがすべて用意されているのです。信仰はあなたが用意するのではありません。信仰の始まりは、神が人となり、十字架を負い、すべての者のために尊い血の価を払われた事実からから始まるのです。私たちの信仰は、すでに神が備えておられるのです。これは常に私たちが覚えておくべき、信仰の基本姿勢なのです。そこには、人間の行為に優先する神の恩寵の行為があるのです。信仰は私たちが神を求めるところから始まるように見えます。しかし実は、神があなたを求めておられる。そのことに気付き、その求めに答えるところから、本当の信仰が始まるのです。「もうすっかり」「用意ができました。」ここから全てが始まるのです。
「恵みの食卓への招き」 ルカの福音書14章12~14節
「逆説」という言葉があります。多くの人が一般に受容している真理に反する説。あるいは常識から考えると一瞬おかしいと思えることが、実は深い真実を言い当てている表現法のことです。昼食や夕食に招待する食事について語る主イエスのお話は、まさに逆説的な表現でした。食事に人を招くことは、人間の交わりの最も親しい関係を示すものです。従って会食は親しい人を招き、楽しく恵まれた時を一緒に過ごすというのが、私たちの常識です。しかし、主イエスは、そういう人たちより、普段交わりもなく、お返しもしない人たちを招くように話されました。(ルカ147:13~14)私たちの社会常識から考えれば、主イエスは、非常識なことをお語りになっておられると、批判してもよいのです。しかし、主イエスはここであえて、常識を破るようなことをお話され、私たちに何かを悟らせようとされておられるのです。このたとえ話は、主イエスがエルサレムに向かう最後の旅の途上で語られました。そこに在る主イエスの一貫して持ち続けられた思いというのは、何が神の御旨であり、そのため、自分の使命は何であるかということでした。特に救いについて、ここでの中心的な課題は、誰が招かれているかという事でした。主イエスは自分にはお返しができると考えている人は、ふさわしくない者であり、お返しができないと思っている人こそ、招きにふさわしい人たちであると言われるのです。誰が救われるのか、それは人間の業ではなく、ただ神の恵みによるという福音の真理をここで、明らかにされているのです。だからこそ、私たちは、神のご厚意、お心遣いにお返しができるとしたら、ただ神への愛と神への感謝のみ。それ以外に何も、神へお返しが出来ない者であることに、私たちが気付くことが大切なのです。