「生きる意味の不況」 ルカの福音書18章18~25節
今私たちは、「生きる意味の不況」と言われる時代に生きております。それなりの豊かさの中に生まれ育ち、紙も鉛筆も絵具、パソコン、テレビ、車もあります。道具はふんだんにあっても、それを使って夢を描くことができない社会になっております。それは「生きる意味」が見えないということでもあるのです。若者たちは夢が描けず、生きる活力も失われ、いつも疲れているように見えます。 本日の聖書に登場する若き役人も、生きる意味を求めて主イエスのところにやってきました。彼の場合、地位や富にも恵まれているという状況にありながら「何がまだ欠けているのでしょうか。」(マタイ19:20)と主イエスに問うのです。彼は自分の人生を支える確かな拠り所を求めていたと思われます。この青年は礼儀正しく、小さい時から神の戒めを守り、今の生活に溺れることなく、役人でありながら権力の座に執着することなく、「今」ではなく、「永遠」を思って生きるために、「どんな良いことをしたらよいでしょうか」と主イエスに教えを乞うのです。この主イエスの前に立つということは、その人の本当の姿があらわになることであり、世間的には申し分のない人物であったとしても、主イエスが問題にされるのは、心の奥底にある思い、願い、動機です。人の目から隠されているその部分です。主イエスは彼の問題点を見抜かれます。彼は律法を守っているという自信から、行いによって救われようとする思いと、自分の富に救いの根拠を置いていたのです。この彼に向かって主イエスは決定的な言葉をかけられます。「もしあなたの主張どおり、あなたがほんとうに隣人を自分と同じように愛しているなら、あなたは自分の持ち物を売り払い、貧しい人たちに与えることができるはずです。だからそれを実践しなさい。」そして「その上で、わたしについて来なさい。」(ルカ18:22)主イエスは、この問いかけをとおして、彼が自分の無力さと罪深さに絶望するように導かれたのです。ところが彼は非常に悲しんで、主イエスの前から去って行きます。その後ろ姿を主イエスは見つめ、いつくしみの愛を注がれるのです。(マルコ10:21)
「祈りのかがみ」 ルカの福音書11章1~4節
「主の祈り」は、その内容の豊かさ、深さ、広さのゆえに、いろいろな呼び方がされてきました。ある神学者は「世界を包む祈り」と呼びました。私たちの日常生活とあらゆる喜びと悲しみ、苦悩と戦いに満ちた世界を包む祈りだからです。またある説教者は「勝利の祈り」と呼びました。なぜなら「主の祈り」は十字架において砕かれた人々、自分の無力と失敗の多くの経験を通して、主に全面的により頼むことを学んだ人々、聖霊によりただ主の恵みのうちに生きることを選びとった人々によって祈られるものであり、ただ主の祝福と力によってのみ導かれることによって、真の勝利の生活を得ることができるからです。さらにある人は「家族の祈り」と呼びました。キリストにある信仰を通して、神の家族とされた者だけが、神を「父よ」と呼ぶことができるからです。また「弟子たちの祈り」とも言われてきました。何よりも「主の祈り」は弟子のひとりが主イエスに「私たちにも祈りを教えてください」と願い求め、直接的には弟子たちに与えられた祈りだからです。さらに「共同の祈り」とも呼ばれてきました。世界の公同教会の礼拝の場で祈られているからです。 このような「主の祈り」は、主イエスのキリスト者に対するあるべき姿について、明確な考えから生まれたものです。主イエスのキリスト者像とは「主の祈り」を祈るキリスト者にありました。ですから弟子たちに祈りを教えてほしいと求められた時、主イエスは即座に「主の祈り」を教えられたのです。 私たちは、この「主の祈り」を通して自分の祈りを吟味し、さらに自分の信仰を吟味することができます。なぜならそこに、真の霊的クリスチャンの姿があるからです。まさに「主の祈り」こそ、私たちが主の願うようなクリスチャンになっているかどうかということを試みる試金石なのです。
「主よ祈りを教えてください」 ルカの福音書11章1~4節
「人間の姿で一番美しいのは、祈る姿である。」ある人の言葉です。また詩人長田弘の「祈ること。ひとにしかできないこと」という言葉を想い起こします。主イエスほど祈る姿の美しい人はいないのではないでしょうか。その形、祈る言葉、集中力、父なる神への揺るがない信頼。ですから弟子のひとりが「主よ、私たちにも祈りを教えてください。」と願い出たのは当然のことでした。弟子たちは主イエスの祈りに触れ、あまりにも貧しい自分たちの祈りを実感したのです。弟子たちは当然祈ることを知っていました。そして祈りの生活をしていたはずです。しかし主イエスの祈りと、自分たちの祈りとは何か違うことに気づいているのです。自分たちも主イエスが祈られるように祈りたいと願ったのです。そしてこれは私たちの願いでもあるのです。私たちが主イエスを信じたことによって、決定的に変わったこと、それは祈らなかった者が祈るようになったということです。ですから祈りの人になりたい。できることなら主イエスのように祈れるようになりたい。しかしどのように祈ったらよいのかわからない。それを教えてほしい。その事を誰よりも主イエスから教えていただきたい。それが私たちの共通の願いであります。それを私たちに代わって弟子たちが主イエスに願い出てくれているのです。さてここで私たちが覚えておくべきことは、「祈り願うこの祈りに、その人のすべてが現れる。」ということです。祈りにはその人のすべての思いが現れています。私たちは祈りを無視し、それを必要としないで生きることもできません。長田弘は「祈ることは問うこと。みずから深く問うこと。」と言いましたが、祈りには私たちの全存在、真実の姿が現れているのです。祈り深く生き得ない者は、そこで既に自分の信仰の浅さを示しているのかも知れません。私たちは、この主の祈りによって、自分の信仰を吟味することができます。自分の祈りを吟味するために、主の祈りを学ぶこと以上に適切なことはありません。これから、その主の祈りを丁寧に着実に学んでいきましょう。
「女の苦しみ」 創世記3章16節
大河の始まりは、ひっそりとした山奥の湧水が源泉となり、源流となっているように、神の救いの歴史にも源泉があり、源流があります。その源流を遡れば創世記3章15節の源流に辿り着きます。ここから神の救いの歴史は始まったのです。そのためこの箇所は「原福音」と呼ばれてきました。この福音の湧水が最初に流れ込んだところがアダムとエバの家族でした。(ルカ福音書は救い主イエス・キリストの系図をアダムまで遡って記しています。ルカ3:23~38)しかしそのアダムの家族で兄弟殺しという悲劇が起こるのです。何故このような事が起こるのでしょうか。その人間の苦しみ、痛みの起源について語っているのが3章16節なのです。この箇所は罪を犯した女に対する神の刑罰が語られております。その第一の刑罰は「産みの苦しみを大いに増す。」ということでした。女性には女性特有の苦しみ、悲しみがあるのですが、その苦痛の最たるものが「苦しんで子を産まなければならない。」ことでした。「生めよ、ふえよ、地に満ちよ。」(創世記1:28)と、出産は神の祝福の賜物でありましたが、罪を犯した結果、事の真相がすっかり変わり、今では「苦しんで子を産む。」という、のろいと災いが加わってしまったのです。第二の刑罰は「しかも、あなたは夫を恋い慕うが、彼はあなたを支配することになる。」という夫と妻の関係に見られます。あれほど女として、妻として、母としての特有の苦労があり、苦痛があっても「それでもなお、あなたは夫を恋い慕い」結婚にあこがれ、夫にしがみつくのです。しかもその夫は「あなたを支配することになる。」というのです。しかし創世記に登場する族長たちの妻、サラ、リベカ、レア、ラケルたちは夫に治められても反抗することなく、仕えることにおいて、神の召しに応える、毅然とした態度を持ち続けた妻たちであったことを覚えましょう。「妻たちよ。自分の夫に服従しなさい。たとい、みことばに従わない夫であっても、妻の無言のふるまいによって、神のものとされるようになるためです。それは、あなたがたの神を怖れかしこむ清い生き方を彼らが見るからです。」(ペテロ第一の手紙3章1~2節)
「力への渇望の時代」 エペソ人への手紙6章10~12節
現代は「力」を求める時代です。強くなかったら生きていけないかのように言われてしまう時代です。それを裏付けるかのように、「00力」と題する本がブームになっており、昨年のベストセラーは「聞く力」(文春新書)でした。何故次々と「00力」という本が売れ、出版されるのでしょうか。このような状況を生み出す背景には、現代社会の構造があります。「グローバル化」「構造改革」「市場原理主義」「新自由主義経済」等で表わされる「地球経済システム」が目指す人間像は、「強さ」が求められる人間です。とてつもなく「強い」人間でなければやっていけない。そしてこのようなグローバル経済システムの中で勝つためには、「力」が必要なのです。負け組になれば、その結果は自己責任として、自分で負わなければならないのです。ですから「弱さ」は極力忌み嫌われるものとなります。市場における成功を勝ち取り、最大の報酬を得るように努力し、その強さを保ち続けることが、現代社会の中で勝つための条件です。しかし、私たちには本当にそんなことが可能なのでしょうか。パウロが「主にあって、その大能の力によって強められなさい。」(エペソ6:10)と言う時、その「力」と「強さ」は、現代社会が求めているような「力」のことでしょうか。いいえ、神はあえて、主イエスを無力な存在としてこの世に送られたのは、私たちがこの世の間違った「強さ」から自由にされ、「まことの強さ」を持って、主イエスに与えられたのと同じ聖なる力をもって、この世を生きることができるように、道を開いてくださったのです。そのために神は小さな赤ん坊になられ、この世に生まれました。これこそ神が「まことの力」を示すために選ばれた手段でした。パウロが言うところの「強さ」は、キリスト者の中から出る力強さではありません。人間が努力し頑張ればなれる強さではありません。それは、注ぎ込まれる力、強められる強さであります。キリスト者の外から、上から与えられる強さなのです。一人一人が直接、「主にあって、その大能の力」の中にいて、強められていることが大切なのです。そして幸いなことに、主イエスはいつ、いかなる時にも、私たち一人一人と共にいてくださるのです。「わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである。」(コリント人への手紙第二12章9節)
「なすべき この一事」 ルカの福音書10章38~42節
昨年出版された本のベストセラーの一位は、阿川佐和子による「聞く力」(文春新書)でした。今も売れ続けているということは、「聞く力」が弱くなっていることが問題になtっていることと無関係ではありません。この「聞く」という言葉は、聖書の中に多く使われており、主イエスは「聞く耳のあるものは聞きなさい。」(ルカ8:8)「聞き方に注意しなさい。」(ルカ8:18)と「聞くこと」の大切さを強調されました。主イエスが「聞く」ということを強調されたのは、神の言葉が私たちを成長させ、大きくさせるからです。それは自分を確かめ、ここに自分がいると感じさせてくれる言葉だからです。情報化社会の中で、情報でない言葉、すなわち主イエスの語られる言葉こそが、私たちを確かなものにするのです。ですから「聞き方に注意し」傾聴しなければならないのです。 本日、読んでいただいた聖書の箇所、マルタとマリヤの姉妹の物語は、この「聞く」という主題を扱っております。 主イエスのもとに座って聞いていたマリヤと、もてなしのために忙しく働いていたマルタ。ここで「いろいろな事を心配して」と訳されている言葉は、たった一語で「まわりから引っ張られる」という意味です。周辺的なことに気を取られていまっているマルタ。一方マリヤは、主イエスの語られる言葉に集中し聞いている。これこそが中心であり大切なことなのです。どうしても必要な一つのこと、それは主イエスの言葉を聞き、交わりを持つことです。マルタはこの中心を見失っておりました。主イエスが期待しておられるもてなしとは、何かをすることではなく、聞くことなのです。そして、それはただ、主イエスのそばに留まることなのです。この親身になって聞くという姿こそ、主日礼拝においてこそ、最もよくあらわされるものなのです。この主日礼拝において、神の言葉にじっくり耳を傾けることから、私たちの「聞く力」を身につけていきましょう。
「誰が真の隣人か」 ルカの福音書10章25~37節
「善きサマリヤ人」という表題で、私たちが親しんできましたこのたとえ話には、主イエスがこのサマリヤ人について「善良」であることについて語られた言葉はありません。ですから正確には、「サマリヤ人に親切にされた人の譬」なのです。この物語で重要な意味を持つ言葉が「かわいそうに思い」(ルカ10:33)と訳されている言葉です。もともとの意味は「共にに苦しむ・共に耐える」です。「あわれみ」と訳される言葉です。「あわれみ」は傷ついているところへ赴かせ、痛みを負っている場所へ入って行かせ、失意や怖れ、混乱や苦しみを分かち合うようにさせます。また悲惨のなかにある人と共に叫び声をあげ、孤独な人と共に悲しみ、弱い人と共に弱くなり、傷ついた人と共に傷つき、無力な人と共に無力になることを要求します。 現代社会が今最も必要とし、求めているもの、それは「共に生きる」隣人です。「あわれみ深い」という、人間らしい在り方、生き方を必要としているのです。そしてそのような「真の隣人」こそイエス・キリストなのです。そもそも、イエス・キリストはなぜこの世に来てくださったのでしょうか。それは、私たち人間の傷ついた姿を見て、「あわれに思い」私たちのところに来てくださったのです。イエス・キリストはこのたとえ話で、あなたを愛を施す側ではなく、傷つき倒れあわれみを受ける必要がある、弱い人の側に置かれたのです。そして誰があなたを愛したか、あわれみ深い人であったかと聞かれたのです。自分自身、傷つき苦しむ側に身を置かないで、苦しむ者の痛みは分かりません。さらに私たちは自分の傷の大きさに気付いておりません。その傷の大きさをただひとり知っていてくださったのはイエス・キリストです。ですから傍らに来てくださいました。私たちの隣人になってくださいました。このお話のサマリヤ人は実は、私たちのイエス・キリストであるということがよく分かった時に、その主イエスの憐れみによって、生かされている私たちは初めて、このサマリヤ人の心を心として生きることができるのです。そして「誰が強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」と問いかけるイエス・キリストの言葉に「それは私です。」と答えて生きる者とされるのです。そして、ただなすべきことを、なし得る限りするのです。主イエスのご愛に突き動かされて、今、そこでなすべきことをすればよいのです。そうです!主イエスのように「あなたも行って同じようにしなさい。」(ルカ10:37)
「受難のしもべの勝利」 創世記3章14~15節
キリストの受難を主題とした映画に「パッション」があります。この映画の冒頭の場面はゲッセマネの園で、神の御心が十字架の死であることがわかっていても、その無惨な死に向かうことに、耐え難い苦しみを抱えてひたすら神に祈るキリスト。その祈るキリストに向かって、するすると音も無く近づく蛇。しかし祈り終わった時、イエスはその蛇の頭をかかとで踏みつけて、グシャと砕くという所からこの映画の受難の物語が始まっていきます。本日の創世記3章14~15節がこの映像の背後にあります。ここで、神は誘惑者である蛇に対して、アダムとエバに語りかけられた「あなたは、どこにいるのか。」「あなたはいったいなんということをしたのか。」という嘆きに満ちた問いかけはありません。いきなり断罪が与えられ、それは「呪い」の宣告となって現れています。蛇は、「主が造られたあらゆる野の獣のうちで呪われるもの」となりました。神さまの蛇に対する問答無用の断罪です。誘惑者の蛇は「一生、腹ばいで歩き、ちりを食べなければならない。」(創世記3:14)みじめな状態に甘んじ、女の子孫との戦いにおいても「かかとにかみつく。」(創世記3:15)ことしかできないのです。反対に蛇に誘惑された女の子孫は、蛇の「頭」を踏み砕いて勝利を収めるのです。この創世記3章15節につきましては、様々な解釈がありますが、伝統的には「敵意を置く」とは、女の子孫である神に選ばれた信仰の子らと欺こうとするサタンの支配にある人々との間に続く、幾世代に及ぶ戦いを意味し、「頭を踏み砕き」とは、罪と死の力に勝利したキリストの復活であり、「彼のかかとにかみつく」とは、そのキリストの受難と十字架を語っていると、一般的には理解されてきました。ここに贖いの思想を読みとることができます。ですから初代教会の教父たちはこの箇所を「原福音」「福音の原型」と呼びました。神さまは人を滅びるにまかせておくことは出来ないで、救い出そうと決心されているのです。私たちはここから、神の救済のご計画を知らされるのです。まだまだ暗い状態ではありますが、しかし、私たちは、新約聖書が告げる「平和の神は、すみやかに、あなたがたの足でサタンを踏み砕いてくださいます。」(ローマ16:20)というという言葉どおり、受難のしもべの勝利が、時満ちて女の子孫より生まれたイエス・キリストによって実現したのです。この一節には贖い主なる神の恵みが輝いているのです。しかも非常にはっきりと輝いているです。
「ありのままの悲しみに向き合う」 サムエル記第二18章24~33節
「だれひとり悲しみが、こんなにも怖れに似たものだとは、語ってくれなかった。」 この言葉は、C.S.ルイスが最愛の妻、ヘレン・ジョイを病で失った時の思いを言い表したものです。死別の悲しみは、怖れに似ている感じがすると告白しております。人との出会いと別れは、人生における中心的な要素です。よき出会いは人生を豊かにし、彩りを与えてくれます。一方で大切な人との別れは、深い悲しみの日々をもたらします。残された者の心身や人生に、計り知れない影響を及ぼします。聖書に登場するダビデは、この死別の悲しみを誰よりも、深く重く味わった人でした。彼は3度にわたり愛する我が子との死別を経験しました。最初にバテシバとの間に生まれた子供を病気で7日目に失い、次に長男アムノン、そして三男アブシャロムと続く死別の悲しみに出会うのです。特にアブシャロムの死に対するダビデの悲嘆にくれる姿を聖書は生々しく描いております。「わが子アブシャロム。わが子よ。わが子アブシャロム。ああ、私がおまえに代わって死ねばよかったのに。アブシャロム。わが子よ。わが子よ。」(サムエル第二18:33)ダビデの悲しみの叫びは、王位を奪い取ろうとし、父ダビデのいのちをねらい、大軍を率いて攻めてきたアブシャロム軍にダビデ軍が勝ち、息子アブシャロムの戦死が伝えられた時の嘆きの声でした。ダビデはこの時、戦いの勝利を全く喜ばず、ただわが子の死に泣き崩れるだけでした。王のために戦った部下にとって、その態度がどれほど不愉快に感じられたことでしょうか。ダビデはこの時、王であるよりも、ひたすら一人の父親であったのです。彼は戦いの始まる前に兵士たちに「私に免じて、若者アブシャロムをゆるやかに扱ってくれ。」(サムエル第二18:5)と頼むのです。子を思う父の姿がそこにあります。「ああ。私がおまえに代わって死ねばよかったのに。」と嘆くダビデの目には、謀反を起こした反逆児アブシャロムの姿はなく「わが愛する子」のみが映るだけでした。あくまで自分を憎んで殺そうとしたアブシャロムを愛し続けたダビデの痛苦の姿こそが、イエス・キリストの姿そのものではなかったでしょうか。主イエスは私たちの罪の破れ口に立ち、父なる神に「ゆるやかに扱ってくださるように。」と執り成してくださり、ダビデが成し得なかった身代わりの死を、あの十字架で成し遂げてくださったのです。
「名が天に記されている喜び」 ルカの福音書10章17~24節
本日の聖書の箇所には、二つの喜びが記されております。一つは弟子たちの喜び(ルカ10:17)、もう一つは主イエスの喜び(ルカ10:21)であります。弟子たちの喜びは、自分たちが悪霊に対する勝利に酔った歓呼の叫びでした。しかし弟子たちが、どんなに力強い業を行っても、それは主イエスが弟子たちにお与えになった権威に基ずくものでした。神がこの弱い弟子たちに信仰と力とを与えて勝利させてくださったのであります。従って神が喜びの源としてほめたたえられていないならば、それは全く虚しいのです。ですから主イエスは言われました。「だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。」(ルカ10:20)主イエスはここで本当の喜びとは何かについて語っておられるのです。「イエスの名による」働きがどんなに立派であろうと、それは永遠のいのちの喜びとは関係がないのです。そうではなくて、私たちの罪の贖い、そして私たちを救ってくださり、私たちを天の書物に名を書いてくださる、主イエス・キリストの御業だけが、永遠のいのちを保証してくださるのですから、この事を心に刻み大切にし、主イエスの御霊によって永遠のいのちを与えられたことに感謝し、喜びましょう。一方ここには弟子たちの的はずれな喜びと対照的に主イエスの喜びが記されております。(ルカ10:21)この「喜び」は、聖霊による満たされた喜びであり、神の救いの知識と父なる神を、キリストに選ばれている人たちに明らかにする(ルカ10:21~22)喜びでした。神は「天地の主」ですから、人間が観察したり、知性や理性を働かせても知ることができません。「これらのこと」つまり神の救いの知識はただ「現してくださる」ことによってのみ得られるのです。主イエスは世の知者、学者が知り得ない救いの知識を、かえって単純で正直な民衆が悟ってこれを楽しむ様子を見て喜びに溢れました。それから主イエスは弟子たちに、「あなたがたの見ていることを見る目は幸いです。」(ルカ10:23)と言われました。それは、旧約の預言者や王たちが見聞きできなかった、主イエスのうちにある、神の国の訪れと救いの恵みを「見る事」ができ「聞く」ことができたからです。(ルカ10:24)私たちはこの救いの恵みを「受ける」ことができた「幸い」を喜びましょう。