「一番小さい者でいいのです」 ルカの福音書7章24~35節
教会はいつの時代もこの世に在って、この世に向かって宣教しなくてはなりません。その語り告げるべきこの世とは、どのような世の中なのでしょうか?イエスは、それを市場にすわった子供たちになぞらえております。子供たちは市場で初めは結婚式のような祝い事の遊びを、次に葬式ごっこをします。しかしどちらの遊びも、誰にも相手にされず不平を並べています。(ルカ7:32)イエスが、市場で遊んでいる子供たちに似ていると言われた「この時代の人々」「今の時代の人々」とは、「神の自分たちに対するみこころを拒んだ、パリサイ人、律法学者のような人々のことです」(ルカ7:30)と言われます。何故彼らが、市場の子供たちに似ているのでしょうか。それは彼らが自分勝手であり、自分の思い通りにならないと怒り、また彼らはよく気が変わり、確固たる意見や考えを持っておらず、子供たちの遊びのように、真剣に求めようとしない点にあると言われます。ですからイエスが待ちに待った、来るべき救い主であり、新しい恵みの時が訪れていることが分からないのです。このような時代に向かって、教会は伝道し、福音を伝えなければならないのです。その使命を果たすために、「この時代」に出て行こうとしている私たちをイエスは「ヨハネよりもすぐれた人は、ひとりもいません。しかし、神の国で一番小さい者でも、彼よりすぐれています。」(ルカ7:28)と呼んで下さり、送り出して下さるのです。何故私たちは、パプテスマのヨハネより勝れているのでしょうか。それはヨハネの生きた時代と私たちが生きる時代の違いにあります。ヨハネの時までは、預言と約束の期間でありました。しかし、ヨハネ以後は神の国の訪れの時代であります。そのためにメシア到来の予告をしていたにすぎない預言者や、メシヤの訪れの道備えをしたヨハネよりも、現に訪れている神の国の福音を宣べ伝える私たちの方が、より大いなる者なのです。ヨハネはキリストを指差した人です。ナザレの大工イエスの中に神の子の姿を見たのです。旧約の預言者がこぞって待望したキリストの姿をイエスの中に見た人でありました。しかし、このキリストを信じて神の子とされ、神の国に生きる者とされた私たちと比べる時、ヨハネはキリストを指差した人、私たちはキリストを我がうちに受けている者、キリストと共に在る者、そこに全くの質の違いがあるのです。キリストが私の中にいて下さるという経験に立つ者、これが小さいといえども神の国にある者の姿です。そこに旧約最後の預言者たるヨハネの持ち得なかった、すばらしい神の扱いがあるのです。そこが「神の国で最も小さい者も、彼よりは大きい」と言われるところです。そんな大きな神の扱いの中に私たちは置かれているのです。だから神の国で最も小さい者、それが私であってもいいのです。一番小さい者でいいのです。それでさえ、こんなすばらしい神の扱いの中に置かれている。そのことをもう一度はっきりと受け取りましょう。
「悔いた心―愛と赦しの光景」 ルカの福音書7章36~50節
本日の聖書の箇所は、教会の階段の踊り場にあります、金井りつ姉妹の心を捉え一枚の絵になりました。それほどにこの光景は、そこに居た人々の心を動かした出来事でした。「罪深い女」(ルカ7:39)として、世間の冷たく、きびしい風にさらされながら生きてきた女が、今流れ落ちる涙で、イエスの足を濡らし、髪の毛でぬぐい、その足に口づけして、香油を塗ったのです。(ルカ7:38)これは想像出来ない光景でもありました。パリサイ人にとっては、イエスがもし神から遣わされた預言者であるなら、この罪に汚れた女と一緒にいることは許し難いことでした。一方この罪深い女にとっては、これらの行為は、イエスに対する感謝と愛の現れでした。私たちは、この場面を思い描くだけで、愛と赦しのメッセージが、直に伝わってきます。ここに人間の真に美しい心を見ることが出来ます。人間の最も美しい姿、それは祈る姿であり、自分の弱さや、影の部分である罪深さに涙する姿です。ダビデの「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」(詩編51:17)の詩編を想い起こさせます。今罪の女は、イエスの恵みに満ちた、確かな御手のうちに支えられ、人生の歩みを始めるのです。彼女は安心して、これからの人生を生きることが出来るのは、彼女が救われたことにありました。イエスが、「あなたの信仰があなたを救ったのです。」と保証されたからです。しかし、この罪赦された女は、イエスから離れてどこへ出て行くのでしょうか。それは、かって自分が罪深い生活をしていた所、世間の白い目が遠慮なく注がれる所で、これから生き続けなければならないのです。その彼女の背中を押し出すように、イエスの思いやりのある言葉がかけられるのです。「安心して行きなさい。」(ルカ7:50)主が愛をもって赦された罪の女に、お与えになられた言葉です。それは、これからはあなた一人ではない。私が共に歩み、支え、守るという、イエスが共に生きて下さるという、確かな約束の言葉なのです。この罪赦された女が、その後、「あなたの罪は赦された。」という言葉と「あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。」というイエスの言葉を支えにして、その信仰生活を生き抜いたことを私は信じたい。
「もう、泣かなくてもよい」 ルカの福音書7章11~17節
「泣かなくてもよい。」(ルカ7:13) 主イエスは、ひとり息子を失い嘆き悲しむ母親にこの言葉を語りかけられます。「泣かなくてもよい。」これは慰めの言葉です。込みあげてくる悲しみの心に、語りかけられた主イエスの言葉です。私どもはこのような死の悲しみに出会う時、何を言っていいのか、言葉を失い、口もろくに聞けない思いで帰ってくるのです。このナインの町の人達も、この母親の悲しみのかたわらに立って、ただ一緒に歩き、涙を流すよりほかなかったのです。そして、この事だけが私たちが出来る精一杯のことなのです。しかし、葬列の人々に向かって、主イエスの真実に力ある言葉がひびき出します。「泣かなくてもよい。」主イエスは母親をじっとご覧になられ、はらわたをゆするような、主の憐れみの思いが、堰を切って溢れ出たのです。「もう泣く必要はないではないか。私がここにいるのだから!」と。地上の旅路には、涙が止まらない時があります。連日報道されております東日本大震災は、今日で一年になりましたが、未だに行方のわかない方々を含め20000人近くの愛する命が失われ、その悲しみの姿に胸が痛みます。それらの人達に誰が「泣かなくてもよい。」などと言えるでしょうか。しかし主イエスは違います。主は死の力が大手を振って、好き勝手なことをして、一人の母親を悲しませていることを許されないのです。「青年よ、あなたに言う、起きなさい。」と声をかけられ、死から命の世界へと、引き戻してしまわれたのです。主イエスが人となり、この地上を歩まれたのは、愛する者を奪い去る死の悲しみを引き受け、死の悲しみを打ち砕くためでした。そのために死に勝利し、三日目に蘇られました。「泣かなくてもよい。」という言葉は、そのお方の言葉なのです。そして「もう泣かなくてもよい。私はここにいる。」と泣かなくてもいいようにされた主イエスは、私どもに泣くなと言われるのです。ですから私どもも、悲しみのただ中で、悲しみを分かち合う者とともに「もう泣かなくてもよい。」という言葉を確信をもって語ることが出来るのです。なぜならこの言葉を私の言葉としてではなく「主イエス・キリストの言葉」として語るからです。「キリストの言葉」そのものを語るのです。だから「泣かなくてもよい。」という主イエスの言葉は、私どもが愛する者を失った時ですら、はっきり語ってよいのです。それは私どもが死に勝利された主イエス・キリストの言葉の本当の力を知らされているからです。いつも覚えましょう。キリストが私たちのために死なれ、蘇られたのは、私たちが望みなき人々のように、泣き悲しむことのないためであることを。死別した者と天において再会する慰めがこの主イエスにおいて約束されていることを。
「見よ このりっぱな信仰を」 ルカの福音書7章1~10節
「このようなりっぱな信仰は、イスラエルの中にも見たことがありません。」(ルカ7:9)という本日の言葉は「今ここに、私が探し求めていた信仰があった。異邦人にそれを発見した。」という主イエスの驚きの言葉でした。主イエスをこれほど感嘆させた信仰の持ち主が、ユダヤ社会に生きていた異邦人百人隊長でありました。ユダヤ人達から見れば、彼は選びの民、信仰の民ではありませんでした。しかし、その壁を越えて、この百人隊長の信仰が、主イエスによって見出されたのです。では主イエスによって光があてられた百人隊長の信仰とは、どのような信仰だったのでしょうか。第一にそれは、一人の人間として、人の痛みを感ずる心を持っていたということです。彼は百人隊長としての地位、権威を捨てて、ただ一人の人間として自分の部下の痛み、苦しみを受け止め、その思いが彼を主イエスのもとに向かわせたのです。第二に彼は、主イエスの全き権威に対して、従う心を持っていたということです。百人隊長は主イエスに来て頂きたいと願いました。それ以外に救いはないからです。しかし同時に彼が認めざるを得ないのは、主イエスという方が、自分が領主ヘロデ・アンティパスの権威のもとに立っているよりも、遥かに確かな、大きな神の権威のもとに生きておられるということでした。だから自分には主イエスに家に入って頂くこともできないほどに、自分にはその資格がないのだと、へりくだって主イエスを迎えようとしたのです。第三に彼は主イエスのお言葉に絶対的な信仰を寄せました。「ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは必ずいやされます。」(ルカ7:7)この物語の中心に位置する言葉です。それは一言でいえば主イエスの言葉への信頼です。言葉は力であります。しかし、言葉に信頼がなければ、それは力とはなりません。百人隊長は自分の軍隊の経験から、言葉(命令)が兵を動かすことを知っておりました。一方で彼は自分の言葉の限界も知っておりました。自分には「行け」「来い」「これをせよ」という言葉は言えたとしても「生きよ」という言葉は言えなかったのです。主イエスが語られる言葉には、自分の言葉にはない、いのちを左右する力があり、私ができることは、その主イエスの言葉を信じて、死にかけている自分の僕を、この主イエスの言葉のもとに置く以外にないのだと、百人隊長は主イエスの言葉に、絶対的な信頼を寄せたのです。主イエスは、ここに自分が求めてきた真実の信仰と出会い、驚かれたのです。そして主イエスはこの見事な信仰へと、私どもを招かれるのです。誰も主イエスを呼び寄せる資格などありません。しかし「イエスは、彼らといっしょに行かれた。」(ルカ7:6)のです。私どものところに行く決意をされた主イエス。この低き主イエスのお姿に打たれて私どもは「わたしのような者にまで」という思いの中で「主よお言葉をください。」と言うことができるのです。
「人生の土台」 ルカの福音書6章47~49節
東日本大震災から、間もなく一年になります。あの大震災は、単に多くのものを、家屋諸共押し流しただけでなく、20000人近くの命を奪いました。それは人生の基盤、明日からの生活そのものを揺るがし、破壊するものでした。それまでの「安全神話」が崩れ、私どもが拠り所としていたものが、いかに脆いものであったかを知らされたのです。それゆえあの大震災は、人の価値観や人生観を大きく変え、考えさせた出来事でもありました。主イエスが本日の聖書の箇所で語られた大洪水の話が、現実に私たちの目の前で起こったということです。聖書は、私たちがこの世で信頼するもの、備えるもの、私たちの人生観の一切が、神のテストに会うと語っております。主イエスはそのテストを「雨が降り洪水が押し寄せる」(ルカ6:48)という言葉で表現致しました。それならば、主は、この光景の一つ一つの表現で、何を言おうとしておられるのでしょうか。やがてもたらされる「さばきの日」のことを、語ろうとしておられることは確かですが、この世での生き方に対しても当てはまるのです。「洪水」、それはいろいろな試練、困難、病気、失望、失敗、損害、不成功など、人生には避けられない、数々の出来事を意味しております。また老いること、そして最後に「死」という洪水が確実にやってきます。死という強力な事実こそ、私たちの人生の土台について、深くテストするものはありません。たとえ、どんなすばらしい能力、才能、賜物がなんであれ、またその人柄が優れ、性格が良く、善良であっても、死は確実にやってきます。その時、この死に対して備えができ、耐えることができなければ、その人は完全な敗北者なのです。 このように私たちの人生においては、目に見えない人生の土台が明るみになる時がきます。主イエスはそれを「洪水」という言葉で話されました。さらにここでは、もう一つ大切なことが言われております。それはその土台が、何の上にあるかということです。岩の上すなわちイエス・キリストという岩、それが大切なのです。私たちの人生が、その信仰が永遠の岩なるイエス・キリストの上にのっていなければ信仰とは、名ばかりの信仰になっていまうのです。このことは、私たちの人生の中で、洪水という試練が押し寄せて来た時に、明らかにされるのです。岩なるイエスの上に立つ家(人生)は、試練をもかえって恵みと変えるのです。そして次のように歌うことができるのです。『風いとはげしく、なみ立つ闇夜も、みもとに鎖を、おろして安らわん。われらのイエスこそ、救いの岩なれ、救いの岩なれ』
「主の言葉を聞いて行う人」 ルカの福音書6章43~49節
ブランド品や宝石、真珠を本物に似せて造られたものを、「模造品」と言います。外見だけでは、本物と偽物を見分けるのはむずかしいですから、自分は本物と信じて購入したが、全くの偽物と判明し、自分で自分を欺くという結果に終わってしまうことがあるものです。信仰においても同じことが言えます。主は「良い木と悪い木」のたとえで(ルカ6:43~45)、外見にだまされる危険性、「主よ、主よ」と表向きは、熱心に呼び求め(ルカ6:46)、自分は信じていると思い込んで、自分を欺くという危険性、救いを求め、恵みや祝福だけを求め、主の言葉を実行しない危険性(ルカ6:47~49)をそれぞれ取り上げて、私どもに警告を与えておられるのです。「真のキリスト者」と「偽のキリスト者」とは、どこが違うのでしょうか。主はその問題を家を建てた二人の人物のたとえを通して語っておられるのです。ここでは二人の間に見られる類似点ではなく、その違いについてが強調されているのです。一方の家が「地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えた」(ルカ6:48)のに対し、他方の家は「土台なしで地面に家を建てた」(ルカ6:49)ことに、決定的な違いがありました。造りが良いとか、良い材料を使用したからではないのです。岩を土台とした良さにあったのです。彼らは同じ場所に同じような家を建てたのです。その相違は、一見明白ではありませんが、その違いは死活にかかわるものです。後日洪水が来て、その違いは明らかになります。「真のキリスト者」とは、キリストの土台の上に家を建てた人ですから、私の思い、私の感情、私の眼差しによるのではなく、常に主にその身を預けることができる人のことです。反対に「偽のキリスト者」は、深く考えないで、警告に耳を貸さず、主よ主よと呼びながら、聖書の教えに無関心で、それを行うことが出来ない。表面的な祝福、喜び、平安を得ることに満足しているのです。果たして私どもは、もっと深みのある、もっと奥深い、キリストの土台にまで達するという掘り下げを切望しているでしょうか。主は私たちの日毎の生活、問題をとおして、キリストに達することを求めておられるのです。「わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞き、それを行う人たちがどんな人に似ているか」(ルカ6:47)という、主イエスのお言葉の意味をしっかりとかみしめ、味わいたいと思います。
「他者を生かす眼差し」 ルカの福音書6章39~42節
「考えてみると、既に自分たちは日々、人々を裁き、また裁き合っている。朝起きた時から夜に至るまで、いや夢の中でさえ、自分は人を裁き、人を責め人を怒っている。」三浦綾子の小説「裁きの家」で、主人公が語っている言葉の一節です。人は自分の罪を計る物差しと人の罪を計る物差しと二つの計りを持っています。そしてこの二つの計りを自分の都合に合わせて使い分け、人を責め、人を裁いているのです。この問題は主イエスも大切なこととして、『目にある梁』と『目のちり』にたとえて取り上げておられます。(ルカ6:41~42)私たちはこの主イエスの言葉を表面上のことだけを考えて、次のように理解します。―これは私たちが他人のことを、とやかく言う資格のある人間ではないということを言っておられるのだ。人間というものは、皆完全無欠ではなく、どこかに欠点がある。その欠点に気付いたら、人の欠点ばかりあげつらっているわけにはいかない。だから他人の目にある『ちり』について、お節介をやくな。自分の目にも『ちり』があるではないか。お互い五十歩百歩ではないか。他人も自分も同じ間違いをしているだけではないか。―と私たちの知恵が語ろうとしているのは、こんなことではないでしょうか。しかし主イエスが、ここで用いられているたとえは違うのです。『ちり』と『梁』で、しかも他人の目には『ちり』であり、あなたの目には、それよりもさらに大きい『梁』がある。それで人を裁く資格があるかと、問われるのです。私たちは実は自分の物差しだけでは、自分の目の中である『梁』を見つけることは出来ないのです。神の目で見つめられ、その光に照らされた時だけ、自分の目にある大きな『梁』に気付かされるのです。従ってこの『梁』を、私たちの神のみ前における『罪』と言いかえることができます。その罪の重さは、主イエスが十字架につけられる程のものであります。したがって、この『梁』の大きさが、あの主イエスの十字架の苦しみの大きさであったのだとはじめてわかるのです。あの主イエスの苦しみ、死の痛み、死の深さは、それだけ私たちの大きな『梁』(罪)を負われていたからです。この大きな罪に気付かないままに、人の目にある『ちり』を気にして、裁くことは間違っているのです。このように他人の目にある『ちり』(罪)を本当に正しく見てとり、見極めるために、愛の視力が必要なのです。そのために自分の目の『梁』(罪)が取り除けられなければならないのです。私たちの眼は他者を生かす眼差しであり、共に生きる人々の罪を正しく見定め、その罪のゆるしの実現のために祈り、神のゆるしの眼差しの中に立つように招くものでなければならないのです。ようするに、主イエスがここで最も大切な教えとして語っておられることは、神のみ前にあって、私たちが、他人をどのように見つめ、どのように振舞っているかということなのです。
「赦され難い私が赦されて」 ルカの福音書6章37~38節
「さばいてはいけません。そうすれば、自分もさばかれません」(ルカ6:37) このイエスの言葉と向き合う時、いつも思い起こす、八木重吉の詩の一節があります。「赦され難い私が赦されている。私はだれをも無条件でゆるさねばならぬ。」ゆるされるはずもない私が、神にゆるされている。その私がどうして人を裁くことができようかと、八木重吉の詩は強く迫ってきます。神が特に厳しく取り扱われる罪に、人を裁く罪が含まれております。「神は高ぶる者に敵対し」(ペテロ第一5:5)とありますように、人を裁き続けるなら、神はその人の味方となることは出来ません。それどころか、その人に敵対されるのです。神を敵に回して、その怒りの下に身をさらすということは、なんと恐るべきことでしょうか。ですから、主イエスは鋭い警告を与えておられるのです。「さばいてはいけません。」と。その神は、私たちに対して、決して裁き主としてではなく、あわれみ深い神として、救いに導き、接して下さいました。(ルカ6:36)主イエスのあのご生涯、あの十字架と復活において、徹頭徹尾あわれみ深い神として、私たちの罪をゆるし、愛の神として現れて下さいました。「あわれみ深い」と訳されております言葉は「他者の苦しみを共にする」という意味の言葉です。人の痛みを、己の痛みとするように、神もそのような方であるというのです。あなたがたの父なる神はあなたがたの痛みを知っておられる。あなたがたがゆるし得ない、愛することが出来ない、その痛みを主ご自身受け止めて下さり、その痛みのゆえに、あなたにあわれみ深くあられるのです。その主のあわれみの真ん中に立って、私どもは、「あなたがたは、さばいてはいけません。」という、主イエスの戒めの言葉を聴くのです。自分が神のあわれみの中に置かれているならば、神が裁かれないのに、どうして私どもに人を裁く権利があるのでしょうか。少なくとも、自分が神のあわれみによって生かされ、ゆるされている者であれば、どうして人のわずかな罪を裁くことが出来るのでしょうか。神はキリストにあって、いつでも裁く側ではなく、裁かれる側に立って下さいます。ですから、この戒めはすべてキリストとのかかわりの中で、守ることが出来る行いなのです。自分の力では実行出来ないことです。人に対して、非難する心がある時、そこには喜びも平安もありません。キリストはそこにはいないからです。あらためて、使徒パウロの次の言葉が迫ってきます。「なぜあなたは、自分の兄弟を裁くのですか。また、自分の兄弟を侮るのですか。わたしたちはみな、神のさばきの座に立つようになるのです。」ローマ人への手紙14章10節
「心の目で見る、神の望み・栄光・力」 エペソ人への手紙1章15節~23節
2012年がスタートして、一か月近くが過ぎようとしていますが、毎日、寒い日が続いています。くれぐれもお身体に気を付けてお過ごし下さい。先週は、年賀状の当選番号が新聞に発表されましたが、皆さんはいかがだったでしょうか。その年賀状のやりとりの中で、神学校時代の友人たちから、それぞれが教会で奉仕したり、キリスト教関係の出版社やキングス・ガーデンで働いている様子を知り、喜びばかりではなく試練の中を通らされている友人たちのために祈らされることもありました。昨年は東日本大震災が起こり、子どもの将来を考えて引越しをしたという報告もありました。また、結婚したり、子どもが生まれたりと、うれしい報告も写真と一緒に送られてきた年賀状もありました。また、日本だけでなく海外からも、信仰の友人たちから、私たち家族のことや教会のために祈っていて下さっていることを知り、本当に嬉しく思いました。祈られている幸いと、祈れる幸いを主に感謝しました。 今日の聖書箇所を見ますと、パウロも同じようなことを感謝しています。彼は、エペソにある教会の人たちの信仰と愛の姿を聞いて感謝と祈りを捧げています。彼らのキリストに対する信頼と、クリスチャン同士の愛の交わりを耳にしたからです。このようなうわさを聞くことができる教会やクリスチャンは幸いだと思います。さて、私たちの教会は、どんなうわさがささやかれているのでしょうか。 パウロは、そのエペソにある教会のために「さらに深く神様を知ることができるように」と祈っています。更には、心の目がはっきりと見えるようにと続いています。さて、心の目が開かれて、何を見るようにとパウロは祈っているのでしょうか。それは、「神の望み・栄光・力」です。私たちが、この神の素晴らしさを見て、味わいながら、信仰生活を歩んでいくことこそ、祝福された信仰生活なのです。 パウロは「信じる者に働く神の偉大な力を知ることができるように」と祈っていますが、教会こそ、まさしく「神の望み、栄光・力」を見て味わうことができる場所です。教会とは、一切の権威を持っておられるキリストが、かしらとしておられる場所だからです。 私たちは、教会のかしらである、キリストにあって期待して信仰生活を歩んでいくことが出来るのです。ご一緒に心の目で「神の望み、栄光・力」を見ていきましょう。
「祝された信仰の絆」 テモテへの手紙第二 1章1節~5節
聖書は主への敬虔と訓戒をもって、子供を訓練することは、両親の責任だと教えています。その責任を非常によく果たした家庭が、若きテモテが育った家庭でした。「祖母ロイスとあなたの母ユニケ」(5節)と、パウロがテモテに書き送った手紙に記されておりますように、ユニケとその母親ロイスは若いテモテを、注意深く賢く育てるという大切な役割を果たしました。祖母ロイスと母親のユニケは「純粋な信仰」を持った女性でした。今パウロはこの彼女達の信仰に、テモテの信仰が断ちがたい霊の絆によって結ばれているのだという事実に注意を向けさせているのです。そしてこのようなテモテの信仰は、パウロにとってうらやましいものでした。パウロはダマスコ途上で、復活のキリストによって劇的な回心に導かれた自分の信仰にくらべて、テモテのように家庭の絆の中で信仰が与えられるということに心ひかれるものがあり、三世代が揃って神の国に入ることを思った時、パウロの心は感謝に満たされたのです。しかし、テモテに救いを与えたのは、彼女たちの信仰ではありませんでした。テモテが罪から救われるためには、個人的にイエス・キリストを信じなければなりません。両親は子供たちが、自分自身に救いが必要であることを理解するように導く必要があります。けれども、親は子供の手を引いて天国に連れて行ってあげることはできません。天国に行きたいのなら自分で主を信じることです。親は天国への行き方を教えることまでしか責任を取れないのです。しかし、子供たちが主を信じた後に、両親は彼らの信仰と主イエスを知ることにおいて、成長するように助けなければなりません。神への信仰とは、この世の富以上に子供たちの将来を確かにし、祝福の中を歩ませる財産なのです。そして信仰の継承は、神の家族全体の問題なのです。そこには、子供たちの人生だけでなく、教会全体の将来がかかっていることを覚えましょう。