礼拝メッセージ要旨

6月3日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「神の創造といのち」               創世記1章26~31節

耕治人の小説の中に、痴呆がすすみ症状が目立つようになった妻を、介護する作者の姿を描いた作品があります。妻が眼に涙をためて「あたし何も出来ないのよ。」と言って泣き出し、自分の額を手でパンパンと叩き、「死にたい。」ともらす姿に胸が衝かれます。人は自分で何も出来なくなる時、自分のいのち、人生とどう向き合わなければならないのか。そこに重い課題があります。聖書は創世記の冒頭で、「人間とは神に完全に依存した存在であり、体も心も身も魂も何もかも神に造っていただき、そして生かしていただいている。いのちを与えてくださったのは神であり、そのいのちを生かしてくださるのも神である。」と語ります。ではそのように造られた人間は、何によって生きるのか。それは働くことにおいて、自分を成長させ生きていくのです。別の見方をすれば、人間というのは「ただ生きている」ということが出来ない存在として創造されたのです。生きていることに、そして自分がここにいることに、理由や意味を必要とするのが人間なのです。人間が働くように造られているということは、人間は「何かが出来る」という感覚を持つ者として、造られているということです。「出来る」という感覚は、私が生きていくためには必要なものです。しかし老いていくと、だんだん出来ないことが増えてきたり、痴呆や認知症、重い障害になったりして、ついには自分一人での生活が出来なくなる時が訪れるかも知れません。耕治人の妻のように痴呆が進行し、介護する夫に対して「どんなご縁で、あなたにこんなことを」と呟き、「あなたのご主人ですよ。」と言われて「そうかもしれない。」と答えるような状況に、私たちも置かれるかも知れません。しかしそうなっても、誰かが「あなたと共に生きたい。」と思って、支えてくれるなら『わたし』は『何も出来ない』自分の現実を受け入れることが出来ます。何よりも私たちにいのちを与え、生かしてくださる神の眼差しがあるはずです。「神はお造りになったすべてのものをご覧になった。身よ。それは非常によかった。」(創世記1:31)とあり、神はすべてのものを『見て』、それぞれが『良い』と認められました。つまり私たちのいのちは、神の眼差しのもとで、神との関係の中で成り立っていることを覚えたいのです。子どもは何も出来なくても、親の想いに支えられて生きています。それと同じように、私たちは神の想いによって存在しています。この神の創造といのちという理解に立つ時、何も出来ない自分であっても、誰かの想いに支えられて生きることが出来ることを覚え、自分の生というものを大切にしたいのです。

5月27日(日) 礼拝メッセージ要旨 光本高敏牧師

 

「信仰によって、アベル、エノク、ノア」      ヘブル書11章4~7節

聖書がいう「信仰」というのは、神様のお言葉に従って神様を受け入れることです。あるいは、神さまが間違いないと立証されることを大切にするものが信仰です。また、神の力を認めるのが信仰です。と、その信仰のすべてのことについて語ってはいないのですが、へブル書の著者が取り上げる旧約聖書の3人の人物を見たいと思います。 第一番目は、アベルです。創世記4章に記されているアダムとエバの第二番目の子です。聖書の記述によりますと彼は羊を飼うものでした。そして、彼には兄カインがいました。二人は、収穫の時期を迎え、それぞれが真の神様へ献げものをしたと言います。兄カインは農作物を、そして、弟のアベルは初子の羊を。それぞれの献げものは違いますが、本質的なものに違いがあったといいます。弟アベルは、羊の初子の中から最良のものを自分自身で持って来ました。兄カインが適当なものを献げたというのではありませんが、神様はアベルの献げものに目を留められました。そして、こう言われたのです。「あなたが正しく行ったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行っていないなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。」と。兄アインは弟アベルに襲いかかり、彼を殺します。本当に悲劇というしかないアベルの人生。しかし、この短い人生のアベルのことを聖書は、信仰に生きた人だと語っているのです。命の価値を長さだと言う人もいますが、アベルの場合は、短く、また、兄に殺されると言う悲劇で終わります。しかし、神様は、彼の信仰は正しかったというのです。 第二番目は、エノクです。彼は、死を味わわなかった人としてよく紹介される人物ですが、もう一つの大切なことを教えてくれる信仰者です。創世記5章を読みますと、エノクは65歳のとき、父親になったと記されています。聖書には詳しく記されていないのですが、65歳にして、子育てをすることの意味を考えさせられたのかもしれません。彼は、その時から、真の神様と共に歩むことを決心したようです。そして、もちろん子育てにおいてもです。息子、娘を育てることを通じて、彼は主と共に生きました。そして、彼が365歳の時、神は彼を取り、天に移したと言うのです。この当時の生涯年齢からすれば、少々短いのですが、彼にとっては、神と共に生きた300年間はどれほどすばらしいものであったでしょうか。 そして、三番目は、ノアです。信仰によって、ノアについてはアベルやエノクより知られていますが、その人生を一言にまとめると、次のように言うことができます。「ノアは、まだ見ていない事がらについて神から警告を受けたとき、恐れかしこんで、その家族の救いのために箱舟を造り、その箱舟によって、世の罪を定め、信仰による義を相続する者となりました。」と。まだ、大きな嵐や災害はさほどなかった時代だと思います。そんな時に、大雨が降り、すべてのものが飲み込まれると聞いて、それを真に受ける者など一人もいなかったでしょう。ましてや、主の怒りが神様から心が離れていっていた人間には、全くその危機が分からなかったんだと思います。しかし、その警告は、信仰者ノアにはよく理解できることであったようです。彼はしっかりとみ言葉を聞いて、それを実行する者になりました。このノアが造った箱舟に入った者だけが、洪水の裁きから救われたのです。

5月20日(日) 礼拝メッセージ要旨  黒川雄三牧師

 

「罪を赦す権威をもつ方」          マルコの福音書2章1~12節

2千年前のイスラエルのガリラヤ湖の北岸のカペナウムの町で起こった出来事です。多分、ペテロの家においてでした。大勢の人がイエス様の話を聞こうと集まり、遅れてきた5人の人は中に入れてもらえませんでした。5人の人は半ば失望しかけましたが、屋根の上に上がり、屋根の一部をはがし始めました。そして開いた穴からその病人を上からつり降ろしたのです。イエス様はそれを咎めるどころか、「彼らの信仰を見て、中風の人に『子よ。あなたの罪は赦されました。』と言われました。」                                                                          Ⅰ.主イエスの罪を赦す権威                                                                           この5人がそこまで苦労してイエス様に近づこうとした理由は、病気を治して欲しかったからです。でも、イエス様は『子よ。あなたの罪は赦されました。』と言われました。私たちは、病気をすると健康を願い、経済的に苦しいと裕福になることを願う、というのが普通です。しかし主イエスは、病気の癒しを求めていた人に罪の赦しを宣言しました。また、食べ物のこと、着物のこと等で心配しやすい私たちに「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」(マタイ6:33)と言われます。イエス様は病気の人に同情され、健康回復のために助けを与えて下さいますが、それ以上に大切なものとして今日の聖書箇所のように「罪の赦し」を宣言し、「神の子」とされることを勧められます。二つの理由を申し上げます。      第一に、実はそれが人間にとって最も必要なものだからです。健康は大事ですが、罪の赦しをいただき、神の愛を確信することは、もっと大切です。    第二に、肉体的な必要は一時的ですが、罪の赦しは、今の人生を生きるために力となるだけでなく、永遠の救いを保証するものだからです。イエス様は、罪を赦す権威を持つことを証明するために、中風の男を奇跡的に癒されました。主は生ける神の御子であり、やがて十字架で罪を贖う方だからです。    Ⅱ.4人の人たちの信仰の働き                                                                          4人は、病気の友人たちを助けたいという熱い友情を持っていました。協力しました。そのために、非常識と思われることを行いました。よく言えば「創造的」ということです。そして、イエス様を信じていました。このお方を信じ、罪の赦しと平安をいただきましょう。

5月13日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「嵐の中の信仰」              ルカの福音書8章22~25節

畑村洋太郎の著書に「失敗学のすすめ」という作品があります。異色の本として注目を集め、今も売れ続けている本です。「失敗を否定的にとらえるのではなく、直視することで失敗を新たな創造という、プラス方向に転じさせて活用しよう。」というのが本書の基本的な立場です。本日の聖書の箇所も、弟子たちの失敗が記されております。私たちはその失敗から大切なものを学びとって、信仰の成長へとつなげたいのです。弟子たちは主イエスの「さあ湖の向こう岸へ渡ろう。」というお言葉に従って舟を出しました。しかし予期しなかった事態に直面するのです。突風に見舞われ、漁師としての今までの経験や知識では乗り切ることが出来ない、困難が襲いかかってきたのです。「先生、私たちはおぼれて死にそうです。」と叫び声をあげました。私たちは何の問題もなく順調な時は、主イエスの存在を忘れてしまうのですが、問題が起こり、困難な情況に直面した時は、「神さま、神さま!」と弟子たちのようにあわてふためくのです。私たちは恐れ、不安と絶望に陥るのです。私たちの信仰は嵐の中では少しも役に立たないのです。嵐と波を静めた後、主イエスは弟子たちに「あなたがたの信仰はどこにあるのです。」と主イエスに対する弟子たちの信仰を問われました。「信仰がない」のでも「信仰が薄い」ことでもありません。信仰はあるが、的はずれ、あるべき場所にきちんと置かれていないことが問題でした。弟子たちは「イエスはぐっすり眠ってしまわれた。」と思ったのですが、ほんとうは、主イエスへの信仰がどこかに忘れ去られ、眠っていたのは弟子たちだったのではないでしょうか。キリストの主権は、まどろむことなく、弟子たちを守っていたのです。(詩編121:3~4)ほんとうの信仰は、どんな時にも目覚めているのです。あなたの信仰が激しい嵐に会う時、私が主イエスを信じた信仰ではなく、主イエスがこの罪深い、弱い私を信じて下さる信仰によってのみ、私たちは支えられているのです。嵐の湖を通り抜けて初めて明らかになるものがあります。見えてくるものがあるのです。それは、私たちの人生の海の嵐に立ちたもうお方、その名をイエス・キリストというお方の本当の姿です。この方が同舟して下さったのです。だからもう舟は沈まないのです。「風も水も、お命じになれば従うとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」(ルカ8:25)

5月6日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「人は何によって生きるのか」            創世記2章4~15節

創世記1章から11章までの箇所は、現代の私たちにとって自分と自分の生きている時代を理解するうえで、聖書の中では最も大切な箇所と言えます。なぜなら、これらの章において、人間の存在について、人間の生きる目的について、そして人間が死ぬということ、結婚と家庭について、働くことと余暇について、技術社会と情報化社会の問題などが、すでに取り扱われているからです。創世記が人間について述べている言葉は「神は人をご自身のかたちに創造された。」(創世記1:27)そして「地を従えよ。…すべての生き物を支配せよ。」(創世記1:28)と命じられました。「神である主は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は、生きものとなった。」(創世記2:7))さらに「神である主は、人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、そこを守らせた。」(創世記2:15)とあります。これらの聖書の言葉は、神が人間を他の被造物とは違って、特別な仕方で造られたことを意味しています。「いのちの息」を吹き込まれ、人間は生きたものとして存在し、世界のあらゆるものを支配し、それを注意深く管理する責任を神から託されたのです。さらに神が造られた大地は、それを耕し守る者がいなければ、豊かな実りをもたらすことは出来ません。人はそのために大地を耕し守るという、大事な責任を担う存在として造られたのです。こうしてエデンの園は、神とすべての被造物と人間が共に交流する舞台となります。その中心に人間が喜びをもって働くということが位置付けられているのです。人間は喜んで労働にいそしみ、自由に園を耕し、人間として生きる実感をもって、自己実現を目指していくのです。一方で神が7日目に休むよう人間に命じられたのは、労働から解放されて自由な時間を持つことの中で、安息日つまり礼拝に於いて神の御前で自分を取り戻し、自分と世界とを見つめ直し、本当の自分自身に帰ることにあるのです。人間は神のために働くことと、神と共に憩うことを求められているのです。世界の創造のみ業のなかで、人間は耕す仕事と共に、憩う時を、神は人間にお与えになったのです。「静まって、私こそ神であることを知れ。」(詩編46:10)

4月29日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「聞き方に注意しなさい」        ルカの福音書8章9~18節

聖書の中に多く使われている言葉に、「聞く」という言葉があります。「聞く」ということが信仰の基本だからです。聖書が、「聞く」ということを、いかに大切にしてきたかがわかります。特に旧約聖書の「イスラエルよ、聞け」という神の呼びかけ(申命記6章3節)、新約聖書の「聞く耳のあるものは聞きなさい」「聞き方に注意しなさい」という主イエスの語りかけ(ルカの福音書8章8節、18節)は、どちらも傾聴を促す言葉として重要です。主イエスが「聞く」ということを強調されたのは、神のことばが私たちを成長させ、大きくさせるからです。それは自分を確かめ、ここに自分がいると感じさせてくれる言葉だからです。情報化社会の中で、情報でない言葉、すなわち主イエスの語られる言葉こそが、私たちを確かな者にする。だから「聞き方に注意し」傾聴しなければならないのです。その「聞く力」が弱くなっていることが問題になっております。落ち着いて人の話を聞くことができない大人や子どもが増えております。いろいろな理由は考えられますが、特に家庭での親が子の、そして子が親の話に耳を傾けるということが軽んじられている状況があります。人は母の胎内にいる時から「聞く力」をもって生まれてきます。そして出産の直後から、すべて親が語りかけることばで生き方のほとんどを学びます。従って集中して聞く能力は養い育てるものです。まずは、親が子どもの語りかけに、じっくり耳を傾けることから始まるのです。今日の情報化社会にあって、忘れられているもの、それが耳を澄ますという生き方です。だからこそ、キリスト者は誰よりも、神のことば、主イエスのことばに耳を澄まし、親身になって聞くという姿を大切にしなければならないのです。その真摯な姿は主の日の礼拝においてこそ、真の姿があらわにされるのです。子どもと共に、神の言葉にじっくり耳を傾けることから聞く力を身につけたいものです。

4月22日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「主よ献げます。私の愛を」         ルカの福音書8章1~3節

ルカの福音書は、「女性の福音書」と呼ばれております。ルカだけが主イエスと十二弟子の伝道旅行にお供し、仕えていた女性たちのことを書いているからです。確かにルカの福音書には最も多く女性が登場します。ここに主イエスや弟子たちの旅を支え、女性でなくてはできないような心くばりをもって主イエスに仕えていた女性たちがいたのです。日々の生活の煩わしさを全部身に引き受けて、いつも主イエスの傍にあった女性たちのことを、ルカは書き記すのです。この女性たちの存在なくして、主イエスの伝道は支えられなかったのです。主イエスは、その女性たちの奉仕に深い信頼を寄せられながら、ご自身の使命に生きられたのです。そしてこの姿は、今の教会にも受け継がれているのです。陰で隠れたところで、いつも配慮し、奉仕する人々がいる。その人々の働きが、教会の礼拝と交わりを支え、その中核となっているのです。これらの女性たちに共通していたことは (一)自分の持ち物を差し出し主イエスに仕え、奉仕したのです。 (二)この女性たちは、主イエスに救われた共通の思い出をもっていました。二節に「また悪霊や病気を直していただいた女性たち」とあります。従って奉仕とは、主イエスに救われたことに対する感謝からなされるものです。 (三)彼女たちの奉仕は、主の弟子として従うものでした。三節に「彼らに仕えている大ぜいの女たちもいっしょであった」とあります。彼女たちは、単に主イエスの一行に、物質的な面から奉仕したというだけではないということです。主イエスに従った者、広い意味で主イエスの弟子達だったということです。その確かな証拠として、あの十字架の場面でも、最後までいたのは女性たちだけでした。主イエスの復活の最初の目撃者も彼女たちでした。本当に弟子らしい振る舞いをみせたのは女性たちでした。彼女たちは、主イエスの十字架から甦えりの歩みまですべて、共にすることのできた人達でした。主イエスに救われたということに対する感謝と、それゆえにひたすら主イエスを愛するという、この共通の思いを持って、脇役にまわり、日々の雑事に徹したのです。しかし、このような女性たちによって教会は支えられ、前進していったのです。今日、女性たちの生活環境は大きく変わり、多くの自分の時間をもつことができる時代になりました。しかし、時代は変わっても、主イエスに仕え、従う姿は基本的に彼女たちとの違いはありません。あらためて教会における奉仕を見つめ直し、主イエスに従っていきたいものです。    「ナルドの壺ならねど、ささげまつる、わが愛、みわざのため、主よ、潔めてうけませ」(讃美歌 391)



4月15日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「広がりゆく主の教会」             使徒の働き2章1~13節

ここに、最初に生み出された教会の姿があります。この教会の原型に従って、私どもは教会を形成していくのです。                       (1)教会とは、信じて待ち続ける群れであります。(使徒2:1~2)弟子たちは、主イエスから聞いた父の約束を待って一つ所に集まり「みな心を合わせ、祈りに専念していた。」のです。(使徒1:14:)彼らは父の約束が実現するまで祈り続けたのです。私たちの祈りは、どこまでも待ち望んでいく祈りでなければなりません。神は最善の時に、その約束を実現されるのです。時は満ち五旬節の日になって、神の霊が彼らに下ったのです。                (2)教会は、聖霊の力が溢れている群れであります。(使徒2:3~4)十字架の場面では、弟子たちは逃げ、裏切り、復活の出来事さえ疑い、無理解と不信仰を示した弟子たちにとって、今こそ新しい生命の源が必要でした。それが聖霊です。聖霊よって、弟子たちは十字架にかけられたイエスの死と復活を理解し信じたように、聖霊によって私たちもキリストの証人とされるのです。従って教会とは、このような生命を持った者たちの集まりです。そして、この新しい生命を持つことが、教会の会員の資格であります。                                                              (3)教会はまた、全ての信者が必要とされている群れであります。(使徒2:2~3)聖霊は「家全体に響き渡った。」のです。そして「ひとりひとりの上にとどまった。」のです。賜物が異なっても一人一人が重んぜられ、聖霊の注ぎを受けたのです。教会には不必要な人は誰もいないということです。ここから一つの原則が導き出されます。「宣教する教会は一つであると共に多様である」ということです。                                    (4)さらに教会は、神の大きなみわざを証しする群れであります。(使徒2:4~13)ガリラヤ人と呼ばれたペテロを始めとする集団に、どれほどの力があり、影響力があったのでしょうか。聖霊は人間の持っている能力に依存して、福音宣教の働きを託そうとはされませんでした。ひたすら恵みと憐れみにしか、生き得ない者たちに、福音宣教をゆだねられたのです。ペテロたちは、このいやしき者を愛し、お救い下さった「神の大きなみわざ」を自分の言葉で語っただけでした。今や「教会の時」「聖霊の時」「宣教の時」です。そのために聖霊は、あなたを通して、この働きをすすめられるのです。


4月8日(日) イースター礼拝メッセージ要旨

 

「主イエスは今も生きておられる」      ヨハネの福音書21章1~14節

私たちの信仰と礼拝は、キリストが甦られたという、その事実を土台とするものです。その復活のキリストと弟子たちとの再会を描く、本日の箇所は、「この後、イエスはテベリヤの湖畔で、もう一度ご自分を弟子たちに現された」という書き出しで始まっております。「この後」とは、ヨハネ20章19節と26節に記されております復活のキリストと弟子たちの再会のことです。そして、今もう一度テベリヤ湖畔での再会というわけです。弟子たちはエルサレムで復活の主に、二度お会いして、それからガリラヤに戻ってきたのです。ここに一つ疑問が生じます。なぜ弟子たちはガリラヤ湖に戻ってしまったのでしょうか。なぜ復活のキリストにお会いした喜びに触発されて、新しく生きる力を与えられ、主イエスが命じられた通り(ヨハネ20:21)伝道のわざにすぐに突き進むことがなかったのでしょうか。彼らは失意のままガリラヤに帰ってきていたのです。使命を投げ捨て、信仰もどこかに置き忘れて、その日暮らしの漁師の生活に戻ってしまったのです。ヨハネ21章をそのように読み進みますと、弟子たちに一度失ってしまった伝道への意欲を取り戻すため、その信仰を立ち直らせ、復活の主が再び伝道の場へと押し出して下さる物語なのです。弟子たちの信仰再生の物語であり、それはまた、私たちの信仰の復活物語なのです。復活の主は、三つの言葉を通して、ペテロたちを信仰の復活へと導かれます。まず「子どもたちよ。食べる物がありませんね。」(ヨハネ21:5)主イエスは私たちの一番困っている所、日々の暮らしの悩み、問題にまず心砕かれるお方なのです。そして「舟の右側に網をおろしなさい。」(ヨハネ21:6)と言われます。主イエスの命令は、何か特別な事をお命じになりません。私たちがいつもしている日々の生活の中で、どこかあきらめたり、おろそかになっていることを、きちんと立て直し、整えるべきものをお示しになり、導かれます。「いつもの通り祈り続けなさい。」「信仰に従いなさい。」「奉仕を続けなさい。」ただそれだけなのです。そして弟子たちを招かれます。「さあ来て、朝の食事をしなさい。」(ヨハネ21:12)すでに復活の主イエスのもとには、パンと魚が用意されております。(ヨハネ21:9)主イエスのもとでのパンと魚の食事、それは聖餐式を含む礼拝の場です。虚しいテベリヤの湖畔が聖なる礼拝の場と変えられているのです。魚は「それほど多かったけれども、網は破れなかった。」(ヨハネ21:11)とあります。神の恵みの網は決して破れることがありません。どんなにあなたの罪が重く、悲しみが深く、失望が大きくても、神の恵みは破れることはありません。主イエスは今、生きておられる。テベリヤ湖に陽光が輝き始めたあの朝、復活の主はその岸辺に立たれました。そしてあなたの朝毎に迎える新たな一日の岸辺にも、復活の主は立ち続けて下さるのです。「あれは主だ!」という喜びの確かさの中に生きましょう。



4月1日(日) 受難週礼拝メッセージ要旨

 

「記念の喜びの食卓」            ルカの福音書22章14~23節

ルカの福音書が書き記す「最後の晩餐」には、主イエスの熱い思いが色濃く描かれております。それは、まず主イエスが食卓につかれたということに見られます。(ルカ22:14)この食卓は、主イエスが心を込めて準備して下さいました。その食卓にまず主イエスが座られ、そこに一つの中心、一つの座標軸が生まれました。続いてその傍らに使徒たちそれぞれが座るのです。主を中心にして座る。そこで自分の位置も定まります。自分がこの主イエスと、どういう関わりにあるかということが、はっきり知らされるのです。さらに15節の主イエスの言葉に、この最後の晩餐に対する思いの強さを感じます。「あなたがたと一緒に、この過越しの食事をすることをどんなに望んでいたことか。」この「どんなに望んでいたことか」という言葉は、過越しの食事をしたいという、抑えることが出来ない主イエスの切なる願いを現す言葉です。そこで聖餐に預かる私たちに、改めて問われますことは、どれだけ聖餐式に預かる恵みを大切に、待ち望んでいるであろうかということです。主イエスが切に望まれたほどの願いに衝き動かされてここに集まっているであろうか。聖餐式はそのような主の熱い思いに根ざしていることを、忘れてはならないのです。それはまた、聖餐を通して、私たち自身の目で見、耳で聴き、手で触れることが出来るように、イエス・キリストという姿を通して、私たちに近づこうとされる神の姿でもあります。さらに聖餐式は、自由解放の記念の喜びの食卓であります。私たちは「最後の晩餐」と言いますが、しかし、主イエスは、「この過越しの食事」と呼んでおられます。(ルカ22:15)かってイスラエルの民がエジプトで奴隷の生活に苦しんでいた時、指導者モーセを与えて、神はご自身の民をエジプトから連れ出されたことを、記念とし守り行う行事でした。主イエスは間もなく十字架で死なれます。しかしその事によって、この過越しの食事が、今まで知ることがなかった真の自由をもたらす、記念の喜びの食事となります。これが主イエスの聖餐におけるご意思でありました。「これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。」「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。」(ルカ22:19~20)この聖餐において、イエスの死を体にまとっている私たちは、キリストの体として、お互いに結ばれています。従って、私たちがどのように生き、死ぬかという違いはあっても、イエス・キリストにあって死ぬことの幸いを分かち合うことができます。私たちは自分一人で死んで逝くのではないのです。キリストと共に死に逝くのみならず、私と一緒に祈りに合わせている兄弟姉妹と共に死に逝くのです。そのことを主イエスは、十字架の死を前にして、この聖餐を通して教えて下さったのです。