礼拝メッセージ要旨

12月30日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「荒野の全行程を覚えて」              申命記8章1~20節

本日の礼拝をもって旧年を後にして、新年2013年を迎えようとしております。それは申命記8章が描くイスラエルの民が、ヨルダン川を渡って約束の地カナンに入る姿に重なります。この時イスラエルの民は、これまでの自分たちの歩みを想起し回顧するように求められております。そのように私たちも新しい年に踏み出すにあたって、第一にすべきことは、今年の歩みの全行程を想起することです。(2節)その全行程は祝福、恵まれたことについてではなく、苦難やつらかった事を覚えなさいというのです。ここには、過去の主の恵み、守り、支え、導きを知ることの大切さが強調されております。 第二にすべきことは、感謝する生き方です。(5~10節) 主は私たちに有益な生き方を教え、訓練されます。そこには「主を恐れて歩む」(6節)ことが求められており、主がお与え下さる祝福が述べられております。(7~9節)一言でまとめるならば、新年も主は私たちを良き地に導き入れようとしておられるということです。(7節)それゆえに主に感謝し、主をほめたたえなければならないのです。(10節) 「感謝する生き方」こそ、主が私たちに求めておられる事なのです。 第三にすべきことは、新年も「主を心に据える生き方」です。(11~18節) 今ある私たちのしあわせ豊かさは、決して自分の力、自分の働きによってそうなったのだと誇り、主をないがしろにすることがないよう、主のみことばに従い、全ては主の恵みと、「主を心に据える生き方」を中心に置かなければならないのです。「あなたの心が高ぶり、あなたの神、主を忘れることがないように」(14節) ただひたすら主の命令を守ってその道に歩み、主を恐れて、「主が賜った良い地について、あなたの神、主をほめたたえる」(10節)礼拝に生きる神の民でありたいと思います。

12月23日 クリスマス礼拝メッセージ要旨

 

「降誕―この輝ける日」           ルカの福音書2章8~14節

誕生日。それは人の一生の始まりですから、その人にとって掛け替えのない、ただ一つしかない大切な日であります。しかし私どもの誕生は、いつ、どこで、父誰それ、母誰それの何男何女として生まれたということが確認され、それ以上の意味はありません。しかしイエス・キリストの誕生は違います。私たちの「いのちの救い主」の誕生ですから、聖書は心を込めて知恵と力とを充分に生かして、豊かに描きました。その中に羊飼いたちが登場します。彼らは天使たちの「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が御心にかなう人々にあるように。」という讃美の歌声を聴いたのです。このことばは、ただ讃美の歌というのではなく、イエス・キリストの生涯を代表する言葉であり、このお方がこの世に存在していたことを言い表す、大事な言葉であります。それならば、最初のクリスマスのあったユダヤの国、そしてその時の世界には「地の上に平和」があったでしょうか。当時ユダヤはローマ帝国の占領下にあり、国内は反乱と弾圧のもとで、人々は苦しんでいたのです。それではイエス様の生まれた後、ユダヤには平和が訪れたでしょうか。聖書はヘロデ大王による幼児虐殺の出来事を記しております。この地のどこに平和があるのでしょうか。今に到るまで、真の平和はこの地の上に、訪れてはいないのです。それならクリスマスは喜びの日ではなくて、悲しみの時なのでしょうか。いいえ違います。あの天使たちと共に神を讃美する日だと聖書は語ります。それは神ご自身が「実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。」(ヨハネ3:16)からです。争い、憎しみの絶えない暗き世界、悲惨な世界、そしてあるがままの私たちを、実にそのひとり子をお与えになったほど愛をもって、愛し抜かれたのです。そのために神はご自身の栄光を捨てられ、この世に人の姿で降り、そして一緒に生きてくださいました。それ故に神を讃美するのです。そういう方がいてくださるから、私たちは争い、憎しみ、残虐があり、惨殺があり、何が起こっても、この世界で生きる意味を失うことはないのです。クリスマスがあるがゆえに、この世界がどんなに暗く、どんなに希望がないように見えても、神は共にあられる。そういう愛がここにはあるのです。地がどんな地であっても、世界がどんな世界であっても、そういう意味で「地の上には平和」はあるのです。それ故、私たちは心の底から声の限り喜びの讃美を歌い、この日を輝きの日として迎えるのです。

12月16日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「主の赦しと信頼の招き」          ルカの福音書9章57~62節

現代は、ある大きな転換の中に置かれている時代のように思われます。これからどうなっていくのか、そのゆくえはまだまだ見極めがつかない状態です。しかし、こういう時代だからこそ、もし信頼できる方がいて、その方から「私に従ってきなさい。」と言われたら、それは本当に喜びだと思います。問題は、私たちは信頼して従っていける方を持っているかということです。聖書はその全体(66巻)を通して「キリストが来られた」と語りかけます。それは「安心して従っていける。信頼できるお方がいる。」と伝えていることなのです。ではこの「キリストに従う」ということは、どのような生き方なのでしょうか。本日の聖書の箇所には、キリストに従う生き方をめぐって、三人の人物が出てきます。最初の人は積極的な人です。「私は、あなたのおいでになる所なら、どこにでもついて行きます。」(ルカ9:57)と自分の「決意」を言い表わしています。二番目の人は消極的な人です。主イエスの方から「わたしについて来なさい。」(ルカ9:59)と言われました。三番目の人は、自分の方から「主よ。あなたに従います。」(ルカ9:61)と言います。しかし、それには条件がありますという従い方です。このように三人三様の主に従う姿勢から見えてくるものは、「キリストに従う」ということは、主イエスから「招かれた」ことに支えられて、その主の召しに従うということなのです。ひたすら「主イエスを見つめて」進むということです。それは「うしろを見ない」(ルカ9:62)ということです。さらに安住の地を持たない主イエスに従うことでもあります。クリスマスの記述の中でルカは、主イエスの誕生を描いたとき、「宿屋には彼らのいる場所がなかった。」(ルカ2:7)と書き、キリストは生まれた時から人の世には、安住の地はなかったと、はっきり書きました。その主イエスが「枕する所もありません。」と言われた時、それは徹底した父なる神への信頼の姿を示しておられる言葉なのです。このことから「私に従ってきなさい。」と言われる主イエスの「招き」は、私たちの罪の身代わりとなられた主イエスの「赦しの招き」であり、同時に神を信頼して生きよという、「信頼の招き」なのであります。ですから、「主イエスに従う」ということは、主に赦されて大らかに自由に生きることであり、主に信頼され、私たちも主に全てをお委ねして生きることなのです。


12月9日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「自分を低くして―キリスト者の自己訓練」   ルカの福音書9章43~48節

「人の子は、いまに人々の手に渡されます。」(ルカ9:44)と主イエスは言われす。ご自身の受難の歩みを語られた二度目の言葉です。最初の時(ルカ9:22)には、主イエスは、ご自身の受難について具体的に話されました。しかし今、弟子たちはそれらの言葉の意味するところが何であるのか理解できていなかったのです。そこで弟子たちは主イエスに尋ねて、そのことを、もっと深く理解しようとしませんでした。それは「苦しみを受け、……捨てられ殺され」(ルカ9:22)ていく主イエスに対して、弟子としての自分たちに何ができるのか、何をすべきなのか、何をしたいのかを考えたくなかったからです。この時から主イエスと弟子たちの間には、気持ちのうえでずれが生じ、弟子たちの心は主イエスから離れ始めているのです。その事が表面化したのが、だれが一番偉いかという、弟子たちの議論でした。この時主イエスは、エルサレムへの最後の旅を覚悟されておりました。その主イエスの思いに背を向けるようにして、誰が一番偉いのかと議論している弟子たちの心を見抜かれて、ひとりの子どもを自分のそばに立たせ、弟子たちに語られます。小さい存在、無価値な存在である小さな子どもを、あたかも主イエス・キリストご本人であるかのように迎え入れ、仲間に加えることは、実はイエスご自身をおもてなししていることであり、それは神さまそのお方をおもてなしすることであると主イエスは言われるのです。それには、あなた自身が誰よりも自分を低きところに置いて、主に仕え、人に仕えなければならないのです。そしてその姿こそ、主イエスご自身の姿そのものでした。神のひとり子としての主イエスは、人となられて低きに下り、救い主として罪深き、小さな価値のない私たちを受け入れて下さり、神の子として下さいました。小さい私たちが大いなる者とされたのです。待降節を迎え、主イエスへ思いを集中しながら、主イエスがどのような歩みをたどられるのかということを、私たちが正しく知ることなしには、主イエスに従うことについても、いかに歩むべきかということについても、弟子たちのような間違いや、混乱を起こしかねないということを覚えたいのです。

12月2日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「その木はいかにも好ましかった」           創世記3章1~7節

本日から待降節に入ります。もし創世記3章の物語がないとすれば、この待降節もありません。ですから、この待降節に創世記3章を学ぶことは、とても意義深いことでもあります。創世記は、2章において神の創造の完成があり、3章からは、その完成を破壊する人間の罪の物語が語られます。神と人、人と人、夫婦の関係、家庭、社会、自然が破られてゆく中で、神と人との間にどのようなことがあったのか。その物語が語られていくのです。まず人間の堕落がこの3章の冒頭に描かれます。神は人間を創造された時、「善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」 (創世記2:17)と人に命じられました。この戒めは、人として生きてほしいと願う神の愛と、人はこの戒めを守ってくれるはずだという信頼によるものでした。神は人がこの愛と信頼の交わりの中に生きてほしいと望まれたのです。しかし、それは強制ではありませんでした。人間の自由意思に委ねられたのです。 ここに人は、二つの大切なものを持っていたことが示されております。一つは、いのちに至る神への従順か、あるいは死に至る不従順の道か、そのどちらか一つを選ぶ「自由」があったということです。二つ目は、このどちらか一つを選ぶ「能力」がありました。すなわち彼らは、善悪のどちらでも行う力があったのです。そしてアダムとエバは、へびのたくみな誘惑と説得に従い、聖なる神の命令に背き、正しいことを行う完全な「自由」と「能力」を持っていたのに、罪を犯しました。神への不従順の恐るべき結果について、あらかじめ警告されていましたが、彼らは、神の戒めを破りました。彼らは共に神の前に立つことが出来ない者となったのです。そして神を恐れて、木の陰に身を隠す者となりました。                                              この物語から私たちが学ぶ大切なことは、人が善悪を確実に知る唯一の道は、神のことばに素直に留まることでした。それも足しても引いても駄目であって、神のことばをそのまま丸ごと受け入れなければならないということです。女は自分の都合のよいように神のことばを変更しました。私たちにとってただ神のことばのみが、サタンの誘惑に勝つことが出来るのです。その神のことばに日々親しみ、その導きに従うこと。つまり主を礼拝しつつ生きること。そのことに集中しつつ、この待降節を迎えたいと思います。        

11月25日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「主イエスの覚悟」           ルカの福音書9章51~55節

人はある覚悟をした時、顔をまっすぐに上げ、正面を厳しく見据える。目的とめざすべき方向が定まったのです。そのためにどんなに危険や困難があったとしても、見苦しい行動はすまいと決めた、ゆるぎない心がそこにあります。今主イエスのエルサレムをめざす旅が始まろうとしております。旅の目的は、「人の子は、必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺される」ためです。(22節)その主イエスの確固たるお姿に、その後についていく弟子たちは「恐れを覚えた」(マルコ10章32節)とマルコは記しております。自分たちの先頭に立って歩む主イエスの前途には、決定的な敗北のしるしとしか思えない、十字架の死が待っている。こんな状況で弟子たちは逃げ出すこともできました。それなのに弟子達はついて行くのです。主イエスの十字架の磁力は彼らを離さなかったのです。その十字架の出来事を「人の子は、いまに人々の手に渡されます。」(44節)と表現なさいました。「渡される」ことは「うら切る」ことです。この事はユダの裏切りにおいて明らかにされました。ユダにとっては主イエスは売り物でした。銀貨30枚、これが主イエスにつけられた値段でした。では私たちにとって、主イエスの値段はいくらなのでしょうか?その前に主イエスにとって私たちはいかほどの価値かをまず聞きましょう。その答えはヨハネの福音書3章16節の有名な言葉です。「そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された」ほどの価値なのです。こうして主イエスは十字架に向かって、ためらわずに進みました。しかし今主の前に恐るべき死の壁が立ちふさがります。「わが父よ、ほかに道はないのですか?」御父は言います「ほかに道はない!」そこで主イエスは覚悟を固められ、私たちの先頭に立って進み行くのです。その主イエスの背をしっかりと私たちは見つめましょう。

11月18日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「不信仰な、曲がった時代」         ルカの福音書9章37~43節

人間が生きるということは、いつも問題にぶつかりながら生きている、様々な問題を抱えて生きていると言えます。問題がない人などは一人としていないのです。ですから主イエスが「山上の変貌」で本来の栄光の姿になられたのに、その栄光の衣を脱ぎ捨てて、私たちのところに降りてきて下さったのは、私たちの問題に寄り添って下さり、重荷を負って下さるためでした。その主イエスの前に、今、一人の父親が、息子の「てんかん」という病気を治して下さるようにと願い出たのです。しかしこの父親の胸中には、主イエスに対する不安がありました。「果たしてこのお方は本当に信頼できる方であろうか。お弟子たちは病気を治すことが出来なかった。このお方も失敗するかもしれない。」等々。マルコの福音書によりますとこの父親は「もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助けください。」(マルコ9:22)と語り、主イエスは「できるものなら、と言うのか。信じるものには、どんなことでもできるのです。」(マルコ9:23)とお答えになっております。そこに主イエスは「ああ、不信仰な、曲がった今の世」(ルカ9:41)の姿を見られたのでした。主イエスが思わず口にされた嘆きの言葉でした。今主イエスは、目の前にいる弟子たち、律法学者と群衆たち(マルコ9:14)すべての人に対して、「ああ、不信仰な、曲がった今の世だ」とお嘆きになられたのです。12弟子たちは、悪霊を追い出し、病気を直す力と権威を授けられ、巡回伝道に送り出されました。そして成果を上げて帰って来ました。しかし、今、てんかんのむすこを前にして、いやすことが出来ないのです。何故でしょうか。それは主イエスへの「祈り」と「信仰」をもって、与えられた「力」と「権威」を、あたかも自分の実力のように誤解し、自分の力で何でも出来ると思い込んでいたことにあります。これが主イエスが言われた「不信仰な曲がった時代」の意味なのです。そのような私たちに対して、主イエスは「いつまで、がまんしていなければならないのか。」と言われます。「がまんして」という言葉は、「背負って」とも訳すことができます。主イエスは「いつまでがまんして、あなたがたを背負わなければならないのか。」と嘆かれます。私たちは、ここに到ってはじめて気付かされるのです。主イエスが十字架に向かって背負わなければならない苦しみは、「信仰」のない「祈り」のない私たちを背負っている苦しみでもあるということです。主イエスは父親に近づいて来て「あなたの子をここに連れて来なさい。」(ルカ9:41)と言われました。これは主イエスの恵みへの招きの言葉です。この恵みの主イエスは、今も悩み多い不信仰な私たちに近づき、私たちの重荷だけではなく、私たちを丸ごと背負い続けてくださるのです。

11月11日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「いのちの身支度」             ルカの福音書9章23~27節

今、日本は高齢化社会を迎え、定年退職して仕事から離れ、あるいは子育てが終わり、子供から手が離れてみると、自分の老後・余生をどのように生きるかということが問題となり、趣味を持つ、文化センターに行く、クラブやサークルに参加するなどして、社会参加を考えます。けれどもそれは、私たちが誰のために、何のために生きてきたかということを考えた時、ただ自分自身の幸せのために生きるという生き方に、どこか充実感、満足感がありません。なかなか自分のためにという自己目的になった人生、自分のための命というものを支えるのは、本当に難しいのです。本来人間は誰かのため、何のために生きるかという感覚を持って、創造されているのです。その意味でキリスト者は、誰のために、何のために生きるのかという目的を、はっきり持ちつつ生きることが出来る者にされております。このことは、どれほどの大きな意味を持っているのかが、本日の聖書の箇所には語られております。ここには、誰のために、何のために生きるべきかという、はっきりした答えが示されております。聖書は語ります。誰のために―「それは主イエスのために。」何のために―「それは自分自身を失わないために。」と。そのために「わたしについて来なさい。」(ルカ9:23)と主イエスは招かれます。自分自身の幸せ、自己目的になった「いのち」は、自分のいのちを失ってしまうことだと、主イエスは語ります。たとえ全世界を手に入れても、その幸せを受け取る本人が、神の前に失われた者だとしたら、何の得がありますかと、主イエスは問いかけられるのです。ここに私たちの「いのちの身支度」をどのようにしたらよいかということが語られているのです。私たちの人生における「得になる」こととは、神さまが私たちを贖い、神さまが私たちを受け入れてくださるということが、本当に私たちにとって「得になる」ことなのです。主イエスに従う、主イエスのために生き死にする。このことを第一に生きることこそ、自分にとって最大の「得になる」ことだと考え、いのちの身支度をする。このことが、本日の聖書の箇所で教えられていることなのです。やがて主イエスが栄光の輝きのうちに来られる時、わたしは「そのような者を恥じる。」と言われないように、主イエスと主イエスの言葉、つまり福音の教えこそ、自分のいのちを一番美しく、生き生きと力強く生かすものであることを、日々確認しながら、主イエスにしっかり従って参りましょう。


11月4日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「共に一つの体として」              創世記2章24~25節

夕日が沈む野原を散策していたイサクは、ふと目を上げて遠くを見ると、らくだに乗って近づいてくる女性の姿が目に入ります。一方見知らぬ地で自分を待っている人がいるというその期待と不安を抱きながら、長い旅を続けて来たリベカも、目を上げると一人の男の姿がそこにあり、その男は野原を歩いて自分の方に近づいて来ました。創世記24章が描くイサクとリベカの出会いの光景です。それは青年期を迎えた人間が、父母のもとを離れ、結婚し家庭を持つという仕方で、どのように自立の道を歩み始めたかという愛の物語でもあるのです。その男女の結婚について最初に記されている箇所が、本日の創世記2章24節なのです。ここでは結婚に関して重要な原則が述べられております。第一に結婚は神が定めた制度であります。第二に男と女とは、お互いのために造られました。第三に結婚とは「父母を離れる」ということであります。男と女は父母の許を離れ、独立自由に生きる者になります。真の独立した人間になるのです。では、結婚の意味とは何でしょうか。それは、「ふたりは一体となるのである。」(創世記2:24)ということです。この箇所を直訳しますと、「一つの肉になる。」となります。ふたりの個人はお互いの分身なのです。夫が妻を愛する場合、夫は決して自分以外の人を愛しているのではなく、彼は自分の一部を愛しているのです。妻も同じです。しかしこの一つになるということは、結婚さえすればひとりでに出来上がっていくというものではありません。「一体になる」とは、この時、アダムとエバにおいて実現し、完成したのではなく、今後実現していかねばならない私たちの課題なのです。そして真に「一体となる」という関係は、イエス・キリストによって完成されると聖書は教えております。新約聖書の中で「一つの体」という言葉は、全てキリストとの結びつきの中に出てくるのです。「私たちもキリストにあって一つのからだであり、ひとりひとりは互いに器官なのです。」(ローマ12:5)とありますように、私たちひとりひとりが、キリストに結ばれることによって、「一つの体」なる教会を形成しているのです。また、「私たちはみな、一つからだになるように、一つの御霊によってバプテスマを受け」(第一コリント12:13)「一つの体」とされて、共に聖餐式においてキリストの杯とパンにあずかることによって「一つの体」であることを確認するのです。ですから私たちは一人一人ばらばらに悔い改めて、罪の赦しに与って家に帰るのではありません。また、これからの一週間をそれぞれがお互いのことを思いやり、心配し、祈りつつ「一つの体」として生きるのです。そしてまた、この礼拝に集められ、「一つの体」として共に生きることの喜びを分かち合うのです。

10月28日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「みことばに生きた人・ルター」      ローマ人への手紙8章35~39節

「宗教改革」それは、ひとつの時代が、一人の人物と密接に結びつけられた出来事でした。1517年10月31日、ドイツのヴィッテンベルク城教会の扉に張り出された「95箇条の提題」をもって宗教改革に立ち上がった人こそ、マルティン・ルターその人でした。ルターは神のことばに生きた人でありました。修道士となってからは、聖書の言葉と深く取り組み、その教えに忠実に従おうと努力しました。しかし、いくら努力をしても、これでよしという自覚は得られず、むしろ努力をすればするほど、絶望し行き詰まります。その絶望の中でルターは、神が二通りのことばをもって、人間に語りかけられていることを理解します。「律法」と「福音」です。「律法」は、人間として生きるに当たって「これを行え」「あれをするな」と命じる神のことばです。「律法」のことばを見つめ「完全」であろうと努力すればするほど絶望へと追い込まれるのです。律法によっては自分の破れ、罪の姿しか見えてこないのです。自分の弱さと徹底的に向き合う中で、あのローマ人への手紙1章17節の「義人は信仰によって生きる。」という神のことばに出会うのです。「信仰のみ」それだけが人間のなすべきことで、後はすべて恩恵と共に与えられる。ルターは聖書のもう一つのことば「福音」に捉えられ、確かな救いの根拠を得たのです。このようにしてルターは、ますます聖書の中心に目が開かれ、神との平和な関係が破れている人間は、キリストを信じる信仰によって、神との交わりに入れられるという福音の真理を人々に語り続けたのです。神のことばは前進し、またそれぞれの国の言語に訳されて、広がっていったのです。ルターは生涯をかけて、神のことばが生けることばであることを味わい、語り、体験した人でした。彼はある説教の中で「私はただ神のことばを教え、説教し、書いただけだ。そのほかに何もしなかった。みことばが何もかもしたのである。私は何もしなかった。みことばに働いてもらったのだ。」と語り、神のことばがどれほど、強力に働くかを知らしめたのです。                    1546年2月18日早朝ルターは狭心症と思われる病状で世を去ります。その死の床のかたわらには、一片の紙が残されており、それがルターの絶筆となりましたが、そこには「100年間預言者と共に教会を教会を導いたのでなければ、聖書を十分に味わったとは思えまい。」と書かれてありました。聖書のことばが示す真理を追い求め、伝え続けたルターの生涯の最後の言葉でした。