1月9日(日) 礼拝メッセージ要旨
「宮における神の子イエス」 ルカの福音書2章39~52節
12才から30才までのイエスの生涯について、私たちが知り得るのは、ルカの福音書だけがわずかに一箇所、12才のイエスについて書き記した2章41~52節の情報だけです。それも「幼子は成長し、強くなり、知恵に満ちて行った。神の恵みがその上にあった。」(40節)という幼子イエスについての言葉と、「イエスはますます知恵が進み、背たけも大きくなり、神と人とに愛された。」(52節)という少年イエスについての言葉の間に挟み込まれた10節の短い文章のみです。そこに描かれている少年イエスは「宮で教師たちの真中にすわって、話を聞いたり質問したりしておられる」姿です。その場に居た人々は、イエスの知恵と答えに驚いたとルカは記しております。さらに「わたしが必ず自分の父の家にいることを、ご存じなかったのですか。」という、福音書に記されているイエスの最初の言葉から、神の子としての意識も、成長とともにはっきりしてきたことがわかります。『必ず』と訳されている言葉は、とても大切な言葉です。『ここには、いないわけにはいかない。』という強い言葉です。少年イエスにとって、父なる神と共に在り、父なる神のことに一生懸命になることが当然のことなのです。生きて働いておられる神は、私たちを救うためにイエスをこの世に遣わされた。そのイエスが父の家におり、父なる神のわざをするのを、最も自然なこととしておられるのです。その少年イエスを通して、神が働いておられる。私たちは少年イエスをそのように見つめているであろうか。そうではなくて、帰路の一行の中にイエスを見失い、宮での本当のイエスの姿を見失い、不安や心配に支配されているヨセフやマリヤのように、私たちも教会生活を忠実に続け、毎日祈り、聖書を読み、学んでいる。そういう生活の中で私たちは、いつの間にか主イエスがよくわかっている、主イエスと共に在ると思い込み、実のところ、真実のイエスを見失って、自分に都合の良いイエス、自分の信仰のレベルに引き下げてしまったイエスになってはいないであろうか。ここで私たちは、立ち止まって、引き返して真実のイエスを見い出さなければなりません。主イエスは「わたしが必ず自分の父の家にいる」と言って、自分は天の御父のひとり子であると語られたこの事は同時に、この御子キリストによって『わたしたちも神の子である』ことを含んでいます。ヨハネはヨハネ第一の手紙3章1節から2節で「私たちが神の子と呼ばれるためには、どんな大きな愛を父から賜ったことか。私たちはすでに神の子であります。愛する者たち。私たちは今すでに神の子であります。」と語っているように、イエスは実にそのために一人の幼子となり、少年となって私たちと全く同じ人生を歩まれたのです。ルカはその事実を52節の「イエスはますます知恵が進み、背たけも大きくなり、神と人とに愛された。」という一行に凝縮して描いたのです。