「神の約束を信じて生きる」 創世記37章1~11節
神の約束の成就の視点から、ヨセフがエジプトへ身売りされる事件を読むならば、これは家族間の対立の結果、生じた出来事ではなく、神のヤコブへの約束の成就のための出来事と理解できる。 ヨセフは兄たちの告げ口をするという癖があった。そして父ヤコブはヨセフを偏愛した。さらにヨセフは二度も自分の見た夢を兄たちに告げた。それで兄たちの憎しみを買い、兄たちに策を練られ、エジプトへ奴隷として売られてしまう。けれども、ヨセフの夢はヤコブに対する約束(創世記35:11-12)の成就の一貫として示されたものであった。つまり、神はこの時、夢を通じてヤコブの家族にご自身の約束を示されたのである。 そして、神はご自身の約束を成就するためにすべてを用いられた。ヨセフの告げ口をする癖も、夢の内容を遠慮なく話すことも、ヤコブのヨセフへの偏愛も、それで兄たちがヨセフを憎んだことも、すべてが約束の成就のために用いられていく。実にこの世で起きる様々な出来事の多くがこの家庭にもあった。しかし、そのすべてが約束の成就のために必要であった。すなわち、約束の成就とは人間の思いとは異なる方法で成就されていくのである。 また、だからこそ、神の民の価値を簡単に私たちは決めることはできない。ヤコブはヨセフから夢の話を聞いた時、ヨセフをいさめたが、最後はその話を批判せず心に留めておいた。ヨセフの話の背後に神の約束を感じたからである。そしてヤコブの態度はその後の結果から判断すると、全く正しかったのである。 私たちも同じである。すなわち、ある人がキリスト者であるにもかかわらず自分たちと異質な場合であっても、その人が約束の民であり、私たちも約束の民であるならば、その人を通じて私たちへの神の約束が成就されていくのである。それ故に、簡単にその人の価値を決めつけることなく、そこに神の御心を見るべきなのである。 かくして、私たち約束の民は、神は必ず約束を成就されることを信じ、その信仰に立って、すべての出来事や人物を理解する必要がある。受け入れ難い出来事が起こり、不可解な人物がいるかもしれない。だが、私たちは信仰の目を開き、その出来事・人物の背後に働かれている神とその約束を見つめることが大切である。そして、理解できないことも信仰をもって心に留め、やがてそのことが解き明かされる時を待つことで神の祝福を受けるのである。
「荒野に向かわれるキリスト」 ルカの福音書4章1~2節
危機というものは、平凡な私たちの日常生活において起こる。その事実を今度の東日本大震災は、生々しく私たちに記憶させました。この危機をどう受け止め、乗り切るか。そのことによって私たちの人生は、右か左か大きく変わっていくのであります。 「荒野の誘惑」と呼ばれている出来事もイエスの公生涯における危機的な状況でありました。イエスは洗礼を通して、神の子としての確信を与えられ、いよいよこれから救い主キリストとしての使命に生きようとされたその時、危機が訪れたのです。ルカはその事を「聖霊に満ちたイエスが、御霊に導かれて荒野におり、40日間悪魔の試みに会われた。」(ルカ4:1~2)と記しました。私たちと違う神の子が、しかも聖霊に満たされた時、この悪魔の最も大きな試みに会われたのです。聖霊により強く扱われる時は、悪魔がより強く働く時だということを、イエスご自身の経験において、私たちにはっきりと示されているのです。では何故イエスは、試みに会わなければならなかったのでしょう。神に等しい神の子が悪魔から試みられることなど考えられないことです。この問いを考える時、想起すべき第一のことは、イエスはまことの人として、罪人のようにバプテスマのヨハネから、悔い改めのバプテスマ(洗礼)を受けられました。そのことは、イエスがはっきりとご自身を人の立場に、いいえ罪人の立場に置かれたということです。この立場は「荒野の誘惑」にも継続され、荒野でまことの人として、罪人の場に立つ者であれば、悪魔の誘惑のもとに置かれるのも当然のことでした。そこで聖霊はイエスを荒野に導かれたのです。それゆえに想起すべき第二のことは、イエスは「最後のアダム(第二のアダム)」(第一コリント15:45)として荒野に導かれているということです。最初のアダムは人類のかしらでありました。最後のアダムであるイエスも人類のかしらです。そのイエスは荒野において敵とただ一人、一対一の戦いをされたのです。最初のアダムと最後のアダム(イエス)の共通するところは、まことの人であり、同じように誘惑に会ったという点です。しかし決定的な違いは、最初のアダムが試みに会った場所はエデンの園でした。そこに、神によって創造された罪のない完全な人アダムが居ました。最後のアダムであるイエスは荒野で試みに会われました。イエスも神によって生まれ聖なる罪なき者として荒野に立たれました。最初のアダムはいかなる欠乏もない、喜びと豊かさに囲まれた満ち足りたエデンの園、一方イエスは欠乏と貧困、飢えに囲まれた荒野におられました。この場所こそ決定的な違いでした。何故荒野なのでしょうか?それはキリストの使命と深く関係しております。今イエスが救い主として出て行かれるところは荒野のような人間社会であります。そこは人間らしさを失い、希望のない人々が「苦しみ、飢えさまよい、苦難と闇、暗黒と苦悩の中にある。」(イザヤ8:21~23)そのような荒野のような世界に向かって、イエスはその人々の救いのために荒野に向かわれるのです。
「日毎の糧といのちの言葉」 ルカの福音書4章1~4節
世の人によく知られている聖書の言葉に「人はパンだけで生きるのではない」というルカ福音書4章4節の言葉があります。旧約聖書の申命記8章3節にすでに語られている言葉です。一般にこの言葉は、人間はパンなどの物質的なものによって生きるのではない。もっと霊的なもの、精神的なものによって生かされるのだと理解されております。またある人達は、「人はパンだけで生きるものではない。それは正しい。しかし、それでもパンがなければ生きられないのだ。」と言います。この聖書の言葉を理解するうえで大切なことは、この言葉は、主イエスにとって切実な言葉であり、誘惑と試みの戦いの中から語られた言葉であるということです。主イエスは40日間何も食べず、空腹を抱えながら、サタンの試みの声を聞かれたのです。主イエスは今、身をもってパンさえあれば救われることを味わっておられます。まさに飢え渇きを体験された主イエスがこの言葉を語っておられるのです。ですから主イエスはここで物質的なものか、それとも精神的、霊的なものか、どちらが大切なものなのかと問うておられるのではないのです。神は私たちの飢え渇きを知っておられ、パンを与えて下さるのです。しかし、あなたがたはわたしの言葉によって生きるのだと言われるのです。神の言葉によって生きるとは、神の言葉を聞き、神によって導かれて生きるということです。「人はパンだけでは生きず、人は主の口から出るすべてのことばによって生きる」(申命記8章3節)主イエスはこの言葉に立ちました。昔、神がイスラエルの民に語られた言葉を、今自分のこととして受け入れられたのです。それはやがてガリラヤで活動される主イエスの伝道の原則となりました。まず、そこで出会う貧しさと病と差別に苦しむ人々に対して、自分がどのような救い主であるべきかをはっきりと示されました。主イエスは貧しい者に食を与え、病める者をいやし、差別に苦しむ者を慰められました。つまりパンを与えられたのです。しかしそれと同時に神の言葉を与え、信仰を与え、罪の赦しと神の祝福を与えられたのです。 さて、荒野の誘惑は、主イエスが勝利し、それで全てが終わりではありません。「悪魔はしばらくの間イエスから離れた。」(ルカ4:13)だけです。やがて十字架を前にして、再び悪魔に同じような試みを受けられたのです。その時、「父よ、みこころならばどうぞこの杯をわたしから取りのけてください。しかしわたしの思いではなく、みこころが成るようにしてください。」(ルカ22:42)と祈られたのは、パンではなく、神の言葉を選び取られた主イエスの姿を示しています。それは神のみこころである十字架を選び取られた主イエスの姿でもありました。
「母になること、母であること」 サムエル記第一1章1~28節
母になることは主の祝福です。しかし母であることはたいへんです。母になるために思いも心も深い苦悩の中に置かれ、母になって、つらさ、寂しさを味わったのがハンナでありました。ハンナの不幸の始まりは「主が彼女の胎を閉じておられた」(サムエル第一1:5)ことにありました。そのために「ハンナの心は痛んでいた。彼女は主に祈って、激しく泣いた。」(サムエル第一1:10)のです。彼女は「このはしために男の子を授けてくださいますなら」(サムエル第一1:11)と祈りました。ハンナを祈りに駆り立てたものは、ペニンナとのいさかいから抜け出したい。子供さえ与えられれば、自分の恥はぬぐわれ、すべてが解決されるとの思いでありました。その彼女をハンナが主の前に自分の問題を置いた時、主は子供の問題で彼女が正しく考えることが出来るように導かれたのです。子供は親の所有物ではなく、子供は神の賜物として与えられるという意識から、神のもとにある子供の生き方が最善であるという考えに至ります。「私はその子の一生を主におささげします。」(サムエル第一1:11)という主に対する決意が信仰の確信に導かれた時、「彼女の顔はもはや以前のようではなかった。」(サムエル第一1:18)のです。神はハンナに心を留められ彼女は男の子を産みました。そして「私がこの子を主に願った」(サムエル第一1:20)結果、神が与えて下さった子供であるから、その名前をサムエル(神の名はエル)と呼びました。それは彼女が祈った神の力を指したものでありました。 また、ハンナは母であるがゆえに、つらさ、寂しさを味わった女性でもありました。サムエルが乳離れした時、おそらく生後2年か3年ぐらいと考えられますが、祭司エリの所に連れて行き、神に捧げました。幼い子がこの時期に母親から離れて暮らすのは、とても寂しくつらいことです。勿論母にとってはなおさらのことであります。この時期の子供の発達段階、自我形成の過程で母親の果たす役割の大きさを考えると、子供を手放すということは、非常な覚悟がいったと思います。ましてやハンナにとって、たった一人の子供を手離すことは、すべてを失うことで、ハンナには何も残らないのではと私たちは考えてしまうのですが、しかしハンナには神への真の信頼に生きる確かな信仰が残っていたのです。ハンナをここまで導いて下さった神こそほめたたえられる方ではないでしょうか。「こうして彼らはそこで主を礼拝した。」(サムエル第一1:28)サムエル記1章はこのことばで結ばれております。
「ヨセフの子から神の子へ」 ルカの福音書3章23~38節
主イエスが、地上における伝道のみわざをお始めになったのが、およそ30才であったとルカは書き記します。私も神学校を卒業して伝道者として、主のお働きに従ったのが、30才でありました。そのこともあって「30才」という年齢は特別な思いを持っております。30才という年齢は、神様の仕事を始めるのにふさわしい年齢であると考えられる理由があります。一つには人間としての成熟度、そして社会的経験の深さからして一人前として扱われ、社会的責任を果たさなければならない立場に置かれる年齢であります。主イエスは、父ヨセフのもとで30才になるまで、さまざまなことを学び、成長し、成熟されてゆかれたのです。ルカはその事実をはっきり見つめ、「人々からヨセフの子と思われていた。」(ルカ3:23)と書き記したのです。そのヨセフの子から順次さかのぼって、頂点が「神の子である。」(ルカ3:38)となります。これがルカが描くまことの人(ヨセフの子)にして、まことの神(神の子)である、イエス・キリストの系図であります。では、ルカはこの系図を通して、私たちに何を語ろうとしているのでしょうか。第一にそれは、私たちは、それぞれが主イエスに連なる者であるということです。この系図には、有名な人の名前や、無名な人々の名前が書き記される中に主イエスの名が置かれ、その名を記されている一人一人が、主イエスに結びつけられております。アダムから始まって一本の糸が、人類の歴史の中を貫いて主イエスまでつながっている。そのいのちの流れの中に私たちも置かれているのです。第二に、私たちは、一人一人が罪に連なる者とされているということです。この系図の根元にアダムがいるということは、アダムの罪を私たち一人一人が受け継いでいるということです。そのことは、私たちは主イエスの救いを待ち望む者であることを意味しております。それゆえに、パウロは主イエスの名を「第二のアダム」(ローマ5:14)と呼びました。ここに、新しい根が据えられて、私たちは主イエスに接ぎ木され、そこから新しいいのちのつながりが始まるのです。第三に私たちは、一人一人が、神に連なる者とされているということです。「このアダムは神の子である。」(ルカ3:38)ということは、私たちは、アダムからヨセフにいたる人間の罪の系譜を通り抜けて、神に連なる者とされているということです。主イエスはアダムに到る全系列を救い取りながら、その系列を神に結びつけて下さったのです。主イエスは、私たちが持っているアダム以来の血の流れを入れ替えて下さり、新しい血筋が生まれてきたのです。その結果、私たちは、その血筋を辿り直して、「私は神の子であった。」と言える者にされて、自分の家系の最後に「そして神にいたる。」と必ず書くことができるのです。この主から受けた恵みを感謝し、喜びと誇りを持って、神の子として、主の兄弟としての人間の歩みをして参りたいと思います。
「背後の御声」 ヨハネの福音書 20章1~18節
東日本大震災から1ヶ月半が経ち、本格的な復興に向けて動き出す人達に、国内、国外から寄せれている言葉が「がんばれ」「希望」「勇気」「ストロング(強く)」などの言葉でありました。どの言葉も「前向きに!」という励ましの意味を込めたものであります。困難な状況に出会って、気持ちが落ち込んでいるようでは確かによくありません。この時を好機と受け止める積極的な前向きの姿勢が求められます。 本日の聖書に登場しますマグダラのマリヤは、ある意味で「後ろ向きに」生きようとした女性でした。主イエスによって、七つの悪霊に憑りつかれていた重い心身病の病状が癒され、心身ともに救われ、それ以後は、主イエスと弟子たちとの群れに身を置き、奉仕しつつエルサレムまで従ってきました。十字架の下で主イエスの死を目撃し、埋葬に立ち会い、そして今、復活の場面にマリヤの姿がありました。そのマリヤは「泣きながら、からだをかがめて墓の中をのぞき込んだ。」(ヨハネ20:11)のです。「だれかが墓から主を取って行きました。主をどこに置いたのか私たちにはわかりません。」と「どこに置いたのか」という言葉を三度繰り返しております。(ヨハネ20:2、13、15)マリヤにとって主イエスは、いまや彼女の生き甲斐でありました。その主イエスが十字架で殺されてしまったことは、自分の人生の中心が失われ、生きる希望を失ったことを意味します。マリヤは過去を振り返り、失ったものにとらわれ、嘆き悲しむのです。そんなマリヤに復活された主イエスは前からではなく、後ろから「マリヤ」と声をかけられたのです。マリヤは最初に後ろを振り向いた時は、主イエスが立っておられるのを見たにもかかわらず、それが主イエスだとわかりませんでした。(ヨハネ20:14)二度目に主イエスが、マリヤの名前を呼ばれた時、マリヤは振り向いて、「ラボニ」(先生)と呼びかけ、主イエスであることがわかりました。マリヤは主イエスを捜し求めて、後ろを振り向いていたのです。しかし、そういうマリヤの後ろに復活のイエスはすでに立っておられたのです。そしてマリヤの後ろから声をかけられました。その復活のイエスにマリヤは「ラボニ」と応えたのです。それは主イエスに見守られ、生かされていたのだという、告白の言葉でもあったのです。このことは、私たちが『前向き』に生きるだけでなく、『後ろ向き』に振り返りながら生きる人生もあるということを示しているのではないでしょうか?私たちが『後ろを振り返る』ということは、何か反省したり、慎重な行動をとるためでは決してないのです。それは今日まで主に守られ、支えられ、生かされてきたことへの感謝と、主の恵みの確かな手答えを味わうための『後ろ向き』であり『振り返り』なのです。その意味で私たちは『前向きに』という生き方とともに『後ろ向きに』『後ろを振り向く』必要が信仰の歩みにおいて大切であることを覚えたいのです。
「みことばに堅く立つ教会」 使徒の働き17章1~15節
新年度の教会の出発に際し、私たちが模範とすべき教会が二つあります。それは、テサロニケとベレヤの教会です。 テサロニケの教会は、パウロが第二伝道旅行の時、ローマの市民権を持っていたシラスの協力を得て、教会建設が始まりました。しかし、パウロ達が迫害のためベレヤに逃れたため、しばらくの間無牧になりました。けれどもテサロニケの教会はりっぱに成長し続けました。後にパウロはテサロニケ教会に対して「あなたがたも、多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、私たちと主にならう者になりました。主のことばが、あなたがたのところから出て、マケドニヤとアカヤに響き渡っただけでなく神に対するあなたがたの信仰はあらゆる所に伝わっているので、私たちは何も言わなくてよいほどです。」(テサロニケ人への手紙第一1章6節、8節)と書き送りました。なんとすばらしい手紙でしょうか。ここに、無牧の中でも、信徒たちが信仰を働かせることにより、教会を建て上げることが出来るという、みごとな証拠が示されております。このテサロニケ教会の信仰の強さはどこから来たのでしょうか。それは聖書のことばに堅く立ち続けたからです。使徒の働き17章1~4節を見ますと、パウロが聖書に基づいて、イエス・キリストについて説き明かす中で、その福音を信じた幾人かのユダヤ人と異邦人達とが、最初のテサロニケ教会の信徒になったことが記されております ベレヤでは、パウロの語る聖書のことばによってテサロニケの教会より多くの者が信仰に入りました。(使徒の働き17章12節)何故でしょうか。第一にそれは、ベレヤのユダヤ人は「良い人たち」(使徒の働き17章11節)であり、素直に聖書のことばに対して開かれた心をもって、救い主イエス・キリストについて、福音の真理について聴き従ったのです。第二に「非常に熱心にみことばを聞く」(使徒の働き17章11節)人達でした。聖書のみことばを聞くうちに、これが真理だと感じたら、それをきちんと受け入れる心の用意をもって、みことばに耳を傾けていた人達でした。第三に聖書を開いて説き明かされた箇所を「はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた」(使徒の働き17章11節)人達でした。ベレヤの教会の人達はだれにもとらわれないで、すすんで聞いた話を吟味し調べたのです。ここに私たちプロテスタント教会の伝統、主張が示されております。私たちは教会の公の礼拝で牧師から聖書のみことばの説き明かしを聞くだけでなく、日々の生活の中で、それぞれが自由に聖書を読み、聖書を調べる権利が与えられています。これこそプロテスタント教会の主張であり、この権利は教会の歴史の中で戦いとられたものであることを忘れてはならないのであります。 今日、テサロニケやベレヤのような迫害で日本の教会から牧師を奪うようなことはないかもしれません。しかし信徒が日々素直な熱心な心で、一人一人聖書を調べ、神とキリストの御声を直接聞き取るということは、キリスト者生活の大切な事柄であることには変わりはありません。守山教会も『みことばに堅く立つ教会』として、一人一人がキリストの御声を聞き、聖書を通して神とお会いすることを喜びとし、信仰の成長を目指して歩み続ける一年でありたいと思います。
「祈るキリスト」 ルカの福音書3章21~22節
人間の最も美しい姿、それは祈る姿です。写真集で見るマザー・テレサの祈る姿に心打たれます。ルカの福音書はその「祈るキリスト」の姿を洗礼をお受けになった場面で描いております。ヨハネの福音書は、主イエスの祈りの内容を詳しく書いておりますが、(特にヨハネの福音書17章)ルカの福音書は祈っておられる主イエスのお姿を強調しております。主イエスは父なる神との深い関係の中で公生涯を送られました。その間、祈りを通して父なる神のお答えを聞き、弟子たちを選び(ルカ6:12)ご自分の道を進まれます。このように主イエスは、祈りをもって救い主としてのお仕事を始められるという重要性をルカの福音書は強調しているのです。祈るキリストの姿を間近に見ていたキリストの弟子たちは自分たちの祈りがあまりにも貧しいので、主イエスに「私たちにも祈りを教えてください。」(ルカ11:1)と願いました。その願いに答えて主イエスは「祈るときには、こう言いなさい。」といって教えてくださったのが「主の祈り」(ルカ11:2~4)でした。主イエスはキリスト者のあるべき姿として「主の祈り」を祈ることを願っておられました。「だからこう祈りなさい。」(マタイ6:9)と言って弟子たちに主の祈りを教えられたのです。いつの時代においても、キリスト者であればだれでも祈りについて教えられ、祈りにおいて成長していくことは、信仰者としての健全な姿なのです。さらにルカの福音書が「祈るキリスト」について強調していることは、主イエスの歩みはどこを切っても祈りの歩みであったことを、ルカは福音書の中で書き記しております。公生涯を祈りをもって始められた主イエスは十字架の上においても祈り続けられました。主イエスの祈りこそ真実に確信に満ちた祈りであったと言うことが出来ます。このことを知る時、私たちの祈りがどんなに小さく、貧しい、心細いものであったとしても、最後に「主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。」と祈ることができるということが、どんなに感謝なことであるか。そのことを覚えたいのです。主イエスは何度もわたしの名によって祈るならば、聞かれないことはないと約束して下さいました。それは主イエスと父なる神との確かな絆によって私たちの祈りが支えられているからであり、父なる神と私たちの絆がそこにあるからなのです。
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「最後まで耐え忍ぶ者」 マルコの福音書13章1~13節
東日本大震災の映像は、驚きと心臓を貫かれるような衝撃を人々に与えました。テレビで放映された生々しい震災の映像は、決して記憶から消えることはありません。あの映像に「小黙示録」と呼ばれている、マルコの福音書13章のキリストが語られた、世の終わりの光景が二重写しとなって迫ってきます。 キリストは壮麗な神殿が崩壊することを預言されました。(マルコ13:2)その預言どおり、紀元70年にローマ軍によってエルサレムの神殿は崩壊しました。人間が造ったものはことごとく崩れ去り、破壊され、消滅するというキリストの言葉が実証されたのです。そして今の時代に生きる私たちにとって、東日本大震災は、警鐘を鳴らす出来事として起こったのです。人間の英知を結集して生み出した最先端技術の原発の施設、建造物、漁船も車も、そして30億円もかけて造られた防潮堤の全てが壊滅状態になりました。これらの震災を前にして「これは想定外の出来事」であったという言葉が何度も語られました。しかしキリストがマルコの福音書13章で語っている世の終わりに関する事柄は、決して想定外のことではなく、必ず起こる出来事であります。そのことを私たちは東日本大震災の惨事を通して認識しなければならないのです。そのためにキリストはマルコの13章の後半で「気をつけていなさい。」(マルコ13:23,33)「目をさましていなさい。」(マルコ13:33,34,35,37)「注意していなさい。」(マルコ13:33)と言葉を連ねて私たちの心を呼び覚まし、この時代をどのように生くべきかを語っておられるのです。そしてこの苦難の時にあって、私たちが貫くべき信仰者としての姿勢は『最後まで耐え忍ぶ人』であれということです。『耐え忍ぶ』という言葉は、聖書の中に何度も出てくる信仰者の特質を表す言葉です。『耐える』とは「ある物の下にじっと留まる」という意味を含んでおります。そこから逃げ出さないで、そこでじっと踏み止まるのです。この『最後』とは一つは自分の死のことです。「自分の死に至るまで立ち続ける」ということです。またこの『最後』とは、私たちの救いの完成の時を意味します。この世の終わりは、救いの完成の時なのです。その望み、その喜びに生きるために『最後まで耐え忍ぶ』のです。 改めて私たちは東日本大震災を通して、神が私たちに何を語り、何を教えようとされているのか、その意味をひとりびとり深く考え、受け止め「目をさまし、注意して」今の時代を生き続けなければならないのです。
「正しい人はその信仰によって生きる」 ハバクク1章1節~2章4節
南ユダ王国のハバククは、神に抗議した預言者です。ハバククがまず神に問うたことは、なぜ正義の神が悪を見過ごされるのか、という問題でした。この問いは現代を生きる私たちにとっても大きな問題となってきます。当時の南ユダ王国は非常に不安定な情勢の中にありました。その中で神様は、南ユダ王国の悪を罰するためにバビロンを起こす、と答えられたのです。しかしハバククはこの神様の答えに対して、残虐な異教徒バビロンによって契約の民イスラエルが滅ぼされるのはおかしい、とさらに抗議をしました。そのハバククに対する神様の最終的な答えは「正しい人はその信仰によって生きる」ということでした。揺るぎない信仰で神様を待ち望む人こそが正しい人であり、その人は生きるのです。またローマ1:17にあるように、神の義がそのような信仰に進ませてくださるのです。苦難というものは信仰を強めもします。私たちも「その信仰によって」生きていきたいものです。