「罪人の自覚」 ガラテヤ人への手紙2章17~18節
私たちが生きている社会の中で、当たり前のように持っている感情に「差別意識」があります。それは人間の罪と深く結びついているものですが、パウロがガラテヤ書の中で戦っている信仰の戦いは、まさに教会の中に忍び込んでいるこの「差別意識」との戦いでした。当時ユダヤ人は自分たちは神から選ばれた聖なる民であり、異邦人は神から離れた罪人であるいう「人種的差別」と、ユダヤ人は割礼を受け、神の掟に従い、神の律法を守り、神の前に義しい生活をしている者たちであり、異邦人は律法を持たず勝手な汚れた生活をしているという「宗教的道徳的差別」を持っておりました。その差別の壁を打ち破ったのが「人は律法の行ないによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる」というパウロの主張でした。キリスト教の核心、福音の真理と言われる「信仰義認」の教理です。人間は自分の立派さによって神の前に立つ資格を獲得することはできません。信仰深い人間(ユダヤ人)も、神を知らない人間(異邦人)も、清く正しい生活をしている人間も、堕落した生活をしている人間も、神の前では同じ立場であります。なぜなら神は人間を「罪人」というこの一点で見つめているからです。人間は神の前ではみな平等に「罪人」なのです。パウロが主張した「信仰義認」のこの教理、「キリスト・イエスを信じる信仰」に生きる時、無価値な人間が神の前に価値ある者とされ、「わたしの目には、あなたは高価で尊い」(イザヤ書43章4節)者とされていくのです。
「ただ信仰のみ」 ガラテヤ人への手紙2章15~16節
ヨーロッパ世界がまだ中世の影を落としている1500年頃、ドイツのある修道院の奥深い部屋で「自分が何者か、何が人生に生きる意味を与えるのか、何が魂に平安を与えるのか。」という問いの前に苦悶している一人の男がいた。彼は修道士として誰よりも模範的であり、正しい、聖い者であると自負していた。しかし彼の内面は全く暗黒であった。彼は「正しいということ」は「正しい行いである」と考えていた。そしてそれは神の掟(律法)を守り従うことだ考えていた。しかし彼はそのように生きようとすればするほど、絶望とみじめさが増すばかりであった。ついに彼は「自分が今まで行ってきたことは、人間の考え出したものであり、不必要で無益、無駄な努力にすぎない」ことを悟った。こうした生活のただ中で、まさに熟読していた聖書から、新しい声が彼に聞こえてきた。彼は驚いたのである。キリストのみが、われわれの行ういかなる人間的な働きを必要とせず、ただ信仰によって、罪人を神との正しい関係に導くというあの言葉「正しい人は信仰によって生きる(義人はその信仰によって生きる)」というローマ人への手紙1章17節の言葉に打ちのめされた。ついに彼は自分の立つ確かな場を見出した。それは単に彼個人を変えただけでなく、当時のヨーロッパ世界の歴史、文化、宗教を大きく変える出来事でもあった。その導火線となったのが、1517年の宗教改革運動であり、当時の堅固なローマカトリック教会と戦ったこの男こそマルティン・ルターであった。彼は「私が何をなすべきかではなく、神の子であるイエス・キリストが私たちのために何をして下さったか」と語りました。「正しい人は信仰によって生きる」という聖書の言葉は「信仰義認」という教理として聖書の中心の真理となり永遠に輝き続け、私たちの大切な信仰基盤なのです。
「さあ しばらく休みなさい」
日本の高度経済成長時代に話題になった言葉に「燃え尽き症候群」「過労死」という言葉がありました.右上がりの成長の波にのまれて、過度の身体的、精神的なストレスの下に、うつ病、出社拒否、自殺、突然死などの症状があらわれ社会問題になりました。主イエスはすでに、このような問題について取り扱っておられます。二人でチームを組んで町や村を巡回して伝道の働きを終えて、キリストのもとに疲れて帰ってきた弟子たちには、休む時間も場所もありません。「人々の出入りが多くて、ゆっくり食事する時間もなかったからである。」と聖書は語っております。だから主イエスは、このままでは弟子たちは「燃え尽き症候群」になる危険性がある。今彼らに必要なのは休み、静まる時間を持つことである。そのことを重要なことと考えらた主イエスは、弟子たちにゆっくり休むように命じられたのです。マザーテレサは「私たちは忙しすぎます。ほほえみを交わすひまさえありません。」と語りました。主イエスは日常生活での仕事、家事、伝道、奉仕の業から離れて、主の前において休み、そして新しい力を得て再び歩み出すことが、どれほど大切なことであるか、誰よりもその重要さに気づいておられたのです。現代社会において不足しているのは、頭の良い人でもなく、有能な人、行動力、実行力のある人でもありません。本当に必要とされているのは深みのある人なのです。そのために私たちは、ちょっと立ち止まって自分自身のことをよく考える時間をもつことは、とても大切なことなのです。「さあ、あなたがただけでしばらく休みなさい。」