「主をほめたたえよ」 詩編103編1~5節
「ダビデによる」…BC1000年頃のイスラエルの王。彼は初代の王サウルから、いのちを狙われ、長い間逃亡生活を送り、数々の苦しみや危険、困難に直面した。そのような経験の中で神への祈りとも言うべき多くの詩編を残した。この103篇も多くの人に親しまれている。 「わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ」(1)作者は自分自身のたましいに語りかけるというかたちで、私たち信仰者が何をなすべきかを教えます。それは主をほめたたえることです。「主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな」(2)これがなぜ主をほめたたえるかの理由。具体的には次節以下。「主はあなたのすべての咎を赦し」(3)神との交わりの回復なしには神からの良きものが受けられません。それゆえにまず第一に罪咎の赦しが述べられているのです。「あなたのすべての病いをいやし」肉体はいやされてもやがて古び衰え死に至る。最も大切なことは死と滅びに至る病いである罪の解決、いやしです。「あなたのいのちを穴から贖い」(4)「穴」とは死と滅びを象徴するものであり、神の前に罪ある人間が本来行くべきところ。しかし神はご自身のひとり子イエス・キリストを私たちのために、この世界に送ってくださり、罪の暗闇の中を歩み、人生の空しさや神のさばき、死への恐れなどをもって生きていた私たち人間に救いの道を開いてくださった。これが神が私たちのためになしてくださったことなのです。「あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ」私たちを待っているのは神の怒りとさばきではなく恵みとあわれみなのです。(ローマ6:23)「あなたの一生を良いもので満たされる」(5)神のよしとされるすべての良きものが、満ち足りるまで神のもとから私たちのところに来る。これが神が私たちに望んでおられること。何と驚くべきことでしょう。(エレミヤ29:11)しかし覚えておかなければならないことは、これは神のみこころにかなったものが与えられるのであり、決して私たちの自己中心的な思いを満たすためのものではありません。「あなたの若さは、わしのように、新しくなる」わし(鷲)は年老いるまで、いつまでも活力に満ち、力強く、長生きする。それと同様に、神を信じより頼む者も神の力によって支えられるのでその力はいつも欠けることがない。(イザヤ46:3~4、Ⅱコリント4:16) この一年もさまざまな出来事がありました。しかし、私たちまことの神を信じる者にとってはどのような出来事が起ころうとも、それらはすべて神がご存知であり、私たちの弱さや苦しみ悲しみを知ってくださり、慰め励まし、また新しい力を与えてくださるのです。私たちは様々な事件、出来事の前に不信仰、悲観的、投げやりになって空しい思いを持って生きていくのではなく、この一年の終わりにあたって主が私たちのためになしてくださった良きことをよく考え、思い返して感謝の思いに満たされ、主をほめたたえる者となりましょう。
「喜び祝え この出来ご事を」 ルカの福音書2章8~20節
羊飼いたちは救い主誕生の最初の証人であり、最初のクリスマスを祝った人達でした。聖書は私たちにイエスの誕生は特別な出来事であり、私たちのあらゆる誕生とは違うことを告げています。聖書の描きますクリスマス物語に登場する人々は、悩み、嘆き悲しみ、不安、苦しみ、疲れを覚えている人々です。それは今の時代も同じです。ですからイエス・キリストは2010年のこの時代に救い主としてお生まれにならなければならなかったのです。今私たちは2000年前のキリストの誕生ではなく、2010年のキリストの誕生をお祝いしているのです。ではこの特別な出来事をどのように祝ったらよいのでしょうか。 (1)まず「あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。」(11節)というこの出来事を、驚きをもって見つめることから始めることです。神が人となられた。なぜこのような事が起こり得たのか。誰にも理解することはできません。しかしヨハネによる福音書3章16節には「神は実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。」とあります。神の愛が神の子イエス・キリストを私たちに与えられた。私たちはそのことのゆえに驚くのです。 (Ⅱ)次にクリスマスを祝う大切なことは、この出来事について「思いを巡らす」(19節)ことです。私たちは静まり「あなたがたのためのしるし」(12節)の意味について考え、この出来事を支配しておられる神のみわざ「それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネの福音書3章16節)という神のみわざ、ご計画について思いを巡らすことです。 (Ⅲ)さらに、神をあがめ、賛美することです。(20節)神を賛美する―それは神を礼拝することを意味します。羊飼いたちは見聞きしたことが、全部御使いの話の通りだったので神を賛美し、神を礼拝しました。2000年前のベツレヘムが羊飼いたちにとって救い主イエス・キリストに出会う場所であったなら、今の私たちにとってのベツレヘムは何処なのでしょうか?『ベツレヘム』それはキリストが居ます所です。そしてその場所こそ『教会』なのです。ペテロは「十字架のキリストの打ち傷のゆえにあなたがたはいやされたのです。」と語った後に「あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は自分のたましいの牧者であり、監督者である方のもとに帰ったのです。」(ペテロの手紙第一2章24~25節)と、キリストの体なる教会をさし示しました。キリストが働かれる場所、教会こそが現代の『ベツレヘム』なのです。毎週、主の日の礼拝に於いて、羊飼いたちがベツレヘムに行ってキリストの誕生という出来事を見たように、今の私たちは、主イエスの十字架と復活という出来事を告げ知らされ、マリヤのようにそのメッセージを思い巡らし、圧倒的な神の愛と恵みに驚き、神をあがめ賛美し、日々の生活の場へと帰って行くのです。
「ただ恵みの確かさに立ちて」 ガラテヤ人への手紙3章2~5節
キリスト教信仰の道は、「あれか」「これか」の世界です。人が救われる道は唯一つです。「律法に聞き従って生きる」道なのか「イエス・キリストを信じて従う」道のどちらかの道でしか人は救われないのです。パウロはユダヤ教徒として、「律法を行う」道を選びました。その生き方が如何に徹底したものであったかは、ピリピ人への手紙3章4~6節のパウロの告白を読めば明白です。そのパウロがダマスコ途上で、復活のキリストに捉えられ、一方的な神の恵みによって回心致します。その結果パウロに見えてきたことがありました。それは神のように聖く、完全でありたいと願い、ひたすら律法を守り、その生き方に徹した方向は、神に向かっているのではなく、まったく反対の方向であったことがわかったのです。さらに、人間の業では、どんなに聖く、義しくあろうと、神の要求を完全に満たすことはできないという、人間の力の限界を悟ったということです。ですから「イエス・キリストを信じる信仰」とユダヤ教の伝統、習慣、常識である「律法の行い」という両方の立場「あれもこれも」受け入れてこそ救いが完成すると考える、ガラテヤ教会の人々の信仰の在り方が、パウロにとっては耐え難いことでした。なぜ「信仰のみ」「ただ神の恵み」という福音をもって信仰の出発点としたのに、今になって律法の行いを強調して、御霊の働きで始まった救いが、人間の業によって完成されなければならないのか!ここにガラテヤ人の愚かさを嘆き、福音の本質に戻って欲しいと願うパウロの叫びを聴き取ることができます。ではなぜ私どもはこのような律法主義の罪に落ち入るのか?それは「私の信仰は私が守っていく」という、何か自分で手応えを感じる生き方がより人間らしい信仰の姿勢だと思うからです。しかしパウロはまさに『この点』で私どもの罪深さが現れるのだと言います。そうではなく、神の恵みにすべてを委ねて『全くそこにおいて生きる』こと。その時、人は本来のあるべき人間になるのです。誰よりも徹底して人間の弱さを知り尽くしたパウロの言葉だからこそ、その思いを私どもはしっかりと受け止め、ただ「信仰のみ」という唯一の道を歩みたいのです。
「主イエスの恵みの手当て」 マルコの福音書8章22~26節
教会暦では待降節に入っております。英語では「アドヴェント(到来)」と呼ばれています。まさに「アドヴェント」は、神のある決定的な出来事が現れ出るのを、私どもが息を潜めて見守り待つ時でもあるのです。この事は、本日の聖書の箇所に登場する主イエスと盲人の姿に象徴的に描かれております。主イエスの両手を両眼に当てていただいた盲人が、少しずつ見えるようになり、やがて「すべてのものがはっきりと見えるようになった。」それは神の救いの歴史が「むかし、先祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られた。」(ヘブル書1章1~2節)ことを物語っております。また、主イエスと盲人の出来事は、私どもの救いの姿を想起させます。私どもは、自分から求めてあるいはこの盲人のように、誰かに誘われたり、連れて来られたりして主イエスのところに来ました。しかし、そこから先は主イエスに手をとっていただき、導かれて、少しずつ聖書の教え、福音の真理の理解がすすみ、ついに、はっきりと主イエスは私の救い主と信仰告白し救われました。神の救いの歴史における一方的な神の恵みのわざ、私どもの救いにおける一方的な主イエスの愛のわざが、ここで語られているのです。さらにこの盲人が「主イエスを見つめ顔を上げる」「彼が見つめていると」という24節、25節の二つの句は信仰の姿を本質的にあらわしていると言えます。今、彼は主イエスに対して顔を上げて一心に主イエスの恵みを受けようとしている。そして精いっぱい目を大きく開いて主イエスを凝視している。その彼の目に、はっきりと最初に映ったのは、主イエスの慈愛に満ちたお顔であったと思います。この待降節を迎えて私どもも、主イエスの愛の恵みを体全体で受け止め、この御降誕から始まり、十字架に進まれる主イエスの姿をしっかりと見つめ続けることが出来ますよう、私どもの信仰の両眼に主イエスの両手を当てていただきましょう。
「御言葉に生きる」 ローマ人への手紙12章1~2節
私たちは「神のあわれみのゆえに」信仰を通して義と認められました。「そういうわけですから」私たちは「からだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい」と、お願いされているのです。「からだ」というのは、私たちの全人格・全存在のことです。そのからだをささげる、すなわち献身とはどういうことなのでしょうか。この手紙は「兄弟たち」に宛てて書かれた手紙ですから、献身ということを全てのキリスト者に対してお願いされている勧めとして受け止める必要があります。献身とは牧師になるというような職業の問題ではなく、生き方のことなのです。また「霊的な礼拝」というのも同様です。それではどのような生き方が献身だと言えるのでしょうか。私たちの人生には、数多くの決断・選択の時がありますが、私たちはどのような基準で道を決めているのでしょう。それは多くの場合、私たちの思想や価値観によっているのです。「この世と調子を合わせてはいけません」ということは、この世やこの時代の考え方に合わせてはいけないということです。「むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのか」という世界観を持つように、自分を造り変えられなさいと言われています。それが献身的な生き方となっていくのです。「神のみこころ」とは二者択一的にみこころの方を選択する、というような考え方ではなく、みこころにかなう生き方ということです。そしてその神のみこころは聖書に記されています。ですから聖書的な世界観で世の中のあらゆる事柄を考え、それに関わろうとする生き方こそが、献身であり、御言葉に生きるということなのです。私たちは社会問題や身近な課題について「神のみこころは何か」という世界観で考え、御言葉に生きなければなりません。何故ならば、私たちはイエス・キリストの福音のゆえに、義と認められた存在だからです。
「福音の出発点に戻る」 ガラテヤ人への手紙3章1節
ガラテヤ書三章から四章は、教理的内容が扱われており、最も重要な部分であります。その冒頭の言葉が「ああ愚かなガラテヤ人。」とは、何と激しく、強い言葉でしょうか!「ああ物分かりの悪い。」「ああ何という分からずやなのでしょう。」「馬鹿な人たち。」等に訳すことも出来る言葉で呼びかけられているのです。常識的に考えても牧会者、伝道者が教会の人たちに向かって言うべき言葉ではありません。なぜこのような過激な言葉が出るのでしょうか。それは十字架の福音を鮮明に語り、教えてきたのに、その十字架が骨抜きにされ、キリストの死が無駄にされてしまうような信仰に、なぜ流されてしまうのか。誰が惑わせたのか。パウロはそのことに苛立ちを覚えているからです。しかしこの「愚かな」という言葉は単なる非難、批判、追及のための言葉ではありません。パウロはガラテヤ教会の人たちを突き放すことが出来ないのです。ガラテヤ教会を愛するがゆえに、彼らの信仰の間違いを何とか解らせてあげたいのです。ある人が言ったようにまさに「愛するゆえの爆発的な呼びかけ」なのです。パウロにとって福音とは、十字架につけられたイエス・キリストのことであり、その十字架の赦し、その愛の恵みこそ福音そのものでした。だからこそ、それに人間的な余計なものが附加されることは断じて許してはならないことでした。福音は何かをなすようにとの招きではなく、神がして下さったことの宣言なのです。ですから、十字架の福音を語る時には、実にこの罪人の頭なるパウロが、このように変えられたという事実を全身全霊をもって語るのです。そして、そのことはガラテヤ教会だけでなく、同じ信仰に生きる私たちに対しても「福音の原点に立つこと。」「福音の出発点に戻る。」ようにと説得するのです。それがあの冒頭の激しい言葉に込められているパウロの真意なのです。
「この恵みに生きる」 ガラテヤ人への手紙2章21節
「私は神の恵みを無にはしません。」 ①この言葉は、パウロの内なる戦いから生まれた言葉です。「人はどうして神の前に正しくあり得ようか。」この命題を前にして、パウロは日夜苦闘致します。そしてこの正しさ(義しさ)は、律法の行いを実行することによって得られるとの確信のもと、律法の要求を満たさんがために精励の日々を送りました。その時の自分をパウロは、このように告白しております。「私は八日目に割礼を受け、イスラエル民族に属し……律法についてはパリサイ人、その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者です。」(ピリピ3章5~6節)このような内なる戦いを経て語られた言葉です。 ②又、この言葉は、否定の中から生まれた言葉でもあります。パウロは神の前に正しくあろうと日夜努力します。その結果パウロが辿りついた心境は、「私にとって得であったこのようなものを、みな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。」(ピリピ3章7~8節)ということでした。このパウロの言葉の底流にあるものは、人間的なものへの否定でした。誰よりも人間的なものにおいて頼むとろこがあるとすれば、他の人以上に多くの外面的なものに、より頼むものがあり、どこまでも人間的な力を信頼したパウロ。しかし、救いには何の力もないことを実感したパウロの否定の言葉なのです。 ③さらに、この言葉は再生の喜びから生まれた言葉でもあります。律法の行いによる自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義という福音の真理に出会ったパウロは、自分の探していた真の救いの道を見出したのです。パウロはキリストに捉えられ、「あの方は私を責めず、そればかりか使徒に選び使命を与えて下さった。最も卑しく、最も卑劣な私をあえて選んで下さった。」とその恵みの豊かさ、広さ、深さのゆえに、パウロはどこまでもこの恵みに立ち続けるのです。そしてこの福音の真理を守るために戦い、その決意が「私は神の恵みを無にはしません。」という言葉に込められているのです。
「恵みの豊かさへの信仰」 マルコの福音書7章24~30節
愛する川瀬至長老が5日に召されました。一人のキリスト者として、84年の生涯を生き終えられました。私どもはその人柄をなつかしむこと以上に、「信仰」そのものが強く印象に残ります。本日の聖書の箇所に登場するツロの女に主イエスが語られた、あの賞讃の言葉「女よ。あなたの信仰はりっぱです。」は、川瀬至長老に対する主イエスの言葉でもあります。私どもは今朝、ツロの女の信仰を学ぶことによって、川瀬至長老の信仰の姿を見ているのです。
今ツロの女は娘の病いで追い詰められて、恥も外聞もなく切なる求めをもってイエスの足もとにひれ伏しています。一方主イエスは、叫び続ける女の願いに沈黙し、拒絶します。しかし最後はこの女の信仰をほめて、「女よ。あなたの信仰はりっぱです。」と言われたのです。主イエスはこの女の信仰のどの点を、「りっぱです。」とほめられたのでしょうか。この女の信仰の偉大さはどこにあったのでしょうか。それは①どこまでも信じ求め続ける信仰―彼女はイエスや弟子たちからの冷たい態度や言葉に接しても、なおも叫び続け願い求めキリストに近寄っていった。②自分の立場を認める素直な信仰―主イエスの福音宣教の原則は、まず神の選民イスラエルからです。彼女は「主よ、そのとおりです。」と自分も娘もイエスの目から見れば、救いの正統な対象ではないことをそのまま認めたのです。救われるに値しない自分であることを自覚しているのです。③神の恵みの豊かさへの信仰―女は『それにもかかわらず』救い主のパンが子どもに多すぎて食卓からこぼれるほど豊かであり、現に救い主イエスが異邦の地にまで来ておられる。救い主の恵みはすでにこぼれ出している。このキリストの救いのあふれる豊かさへの信仰こそ、この女の信仰の大きな中心点だったのです。そして、このあふれる恵みへの揺るがない信仰こそ、川瀬至長老を支え、失望することなく、祈り続け、神のいつくしみのみ顔を求め、イエス・キリストの福音に信頼し従う生き方の原動力となったのです。
「もはや私が生きているのではない」 ガラテヤ人への手紙2章19~21節
10月31日は宗教改革記念日です。1517年ルターがたった一人で、あの強大なローマカトリック教会に対して、「義人は信仰によって生きる」という、福音の真理を真正面に揚げ戦いを開始した歴史的出来事が起こった日でした。それはすでに約1500年前パウロが、ガラテヤ教会と対峙した戦いでありました。人間が直面している差し迫った問題、それは「人はどうして神の前に正しくあり得ようか」という問題です。パウロもルターもこの問題に直面し、『正しい』ということは『正しい行いである』と考え、神の律法を守り従うことこそ正しい行いであると考えました。そのため律法の求める行いに励み務めます。しかし『キリスト・イエスを信じる信仰によって義とされる』という、福音に目が開かれた時、それまで自分が行ってきたことは、人間の考え出したものであり、不必要で、無駄、無益な努力にすぎなかったことを悟りました。その結果パウロもルターもどこまでも人間の行いを強調する律法の道ときっぱり決別して、福音の道に生きることを決意したのです。その生き方をパウロは「私は神に生きるために、律法によって律法に死にました。」と語り、それはまたルターの体験でもありました。ここに『私が』『私は』『私の』と全てが『私』を中心として『私』を誇る生き方から『もはや、私が生きているのではない』と断言し、『キリストが私のうちに生きておられる』という新しい自分の存在を再発見し、自らの人生を大きく転換させたパウロの姿が、歴史の時空を越えてルターという一人の人間に投影され、あの宗教改革運動を生み出したのです。キリスト・イエスにあるものは『もはや私が生きているのではない』のです。『キリストが私のうちに生きておられる』ことを覚えましょう。
「ヨセフ」 創世記37章1~36
時代は紀元前2000年頃に生きたイスラエル民族の祖先アブラハムの子イサクの子ヤコブの時代。神は恵みのうちに彼らと祝福と繁栄の契約を結んでおられた。ヤコブの子は息子十二人と娘一人であり、彼らは二人の妻と二人の女奴隷によって生まれた。ヨセフはヤコブの最愛の妻ラケルとの間の子であり、しかも父が年を取ってから生まれたので、特に愛し可愛がっていた。父は高級なそでつきの長服をヨセフにだけ作って着せてやっていた。ヨセフは十七歳の時、兄たちと羊の群れを飼っていたが、彼らの悪いうわさを父に告げ口した。またある時ヨセフは二つの夢を見た。第一の夢は畑でヨセフがたばねた束を兄たちの束が回りに来ておじぎをしたというものであり、第二の夢は太陽と月と十一の星が彼を伏し拝んでいるというものであった。「太陽と月」は父と母、「十一の星」とは兄弟たちを指しているということは彼らにはすぐわかった。さすがにこの時は父も彼を叱り、兄たちは彼をねたみ、ますます憎むようになった。その後、羊を飼っていた兄たちの所に父のもとから使いにやられたヨセフを見つけた兄たちは彼を捕らえて殺そうと企てる。ねたみ、憎しみはついに殺意にまでふくれあがった。最終的に彼はエジプトに交易のために行くイシュマエル人の隊商に銀二十枚で売られてしまった。兄たちはヨセフが悪い獣に殺されたという偽装工作をし、父ヤコブは何日もの間激しく嘆き悲しむ。一方ヨセフはエジプトへ連れられて行き、そこで奴隷としてエジプトの王パロの廷臣、侍従長ポティファルという人物に売られた。
父の偏愛、ヨセフの高慢、兄たちのねたみ、憎しみ、殺意。問題だらけの家族である。しかし、契約に忠実な神はそのような人間の罪深さ、愚かさをなおも摂理のうちに用いられてイスラエル民族の歴史を新しい局面に導いていかれる。神はこのイスラエル民族の歴史を通してご自身のみこころ、救いの計画を示され、救い主イエス・キリストもこの民族を通して来られる。