2月5日(日) 礼拝メッセージ要旨
「赦され難い私が赦されて」 ルカの福音書6章37~38節
「さばいてはいけません。そうすれば、自分もさばかれません」(ルカ6:37) このイエスの言葉と向き合う時、いつも思い起こす、八木重吉の詩の一節があります。「赦され難い私が赦されている。私はだれをも無条件でゆるさねばならぬ。」ゆるされるはずもない私が、神にゆるされている。その私がどうして人を裁くことができようかと、八木重吉の詩は強く迫ってきます。神が特に厳しく取り扱われる罪に、人を裁く罪が含まれております。「神は高ぶる者に敵対し」(ペテロ第一5:5)とありますように、人を裁き続けるなら、神はその人の味方となることは出来ません。それどころか、その人に敵対されるのです。神を敵に回して、その怒りの下に身をさらすということは、なんと恐るべきことでしょうか。ですから、主イエスは鋭い警告を与えておられるのです。「さばいてはいけません。」と。その神は、私たちに対して、決して裁き主としてではなく、あわれみ深い神として、救いに導き、接して下さいました。(ルカ6:36)主イエスのあのご生涯、あの十字架と復活において、徹頭徹尾あわれみ深い神として、私たちの罪をゆるし、愛の神として現れて下さいました。「あわれみ深い」と訳されております言葉は「他者の苦しみを共にする」という意味の言葉です。人の痛みを、己の痛みとするように、神もそのような方であるというのです。あなたがたの父なる神はあなたがたの痛みを知っておられる。あなたがたがゆるし得ない、愛することが出来ない、その痛みを主ご自身受け止めて下さり、その痛みのゆえに、あなたにあわれみ深くあられるのです。その主のあわれみの真ん中に立って、私どもは、「あなたがたは、さばいてはいけません。」という、主イエスの戒めの言葉を聴くのです。自分が神のあわれみの中に置かれているならば、神が裁かれないのに、どうして私どもに人を裁く権利があるのでしょうか。少なくとも、自分が神のあわれみによって生かされ、ゆるされている者であれば、どうして人のわずかな罪を裁くことが出来るのでしょうか。神はキリストにあって、いつでも裁く側ではなく、裁かれる側に立って下さいます。ですから、この戒めはすべてキリストとのかかわりの中で、守ることが出来る行いなのです。自分の力では実行出来ないことです。人に対して、非難する心がある時、そこには喜びも平安もありません。キリストはそこにはいないからです。あらためて、使徒パウロの次の言葉が迫ってきます。「なぜあなたは、自分の兄弟を裁くのですか。また、自分の兄弟を侮るのですか。わたしたちはみな、神のさばきの座に立つようになるのです。」ローマ人への手紙14章10節