2月26日(日) 礼拝メッセージ要旨
「人生の土台」 ルカの福音書6章47~49節
東日本大震災から、間もなく一年になります。あの大震災は、単に多くのものを、家屋諸共押し流しただけでなく、20000人近くの命を奪いました。それは人生の基盤、明日からの生活そのものを揺るがし、破壊するものでした。それまでの「安全神話」が崩れ、私どもが拠り所としていたものが、いかに脆いものであったかを知らされたのです。それゆえあの大震災は、人の価値観や人生観を大きく変え、考えさせた出来事でもありました。主イエスが本日の聖書の箇所で語られた大洪水の話が、現実に私たちの目の前で起こったということです。聖書は、私たちがこの世で信頼するもの、備えるもの、私たちの人生観の一切が、神のテストに会うと語っております。主イエスはそのテストを「雨が降り洪水が押し寄せる」(ルカ6:48)という言葉で表現致しました。それならば、主は、この光景の一つ一つの表現で、何を言おうとしておられるのでしょうか。やがてもたらされる「さばきの日」のことを、語ろうとしておられることは確かですが、この世での生き方に対しても当てはまるのです。「洪水」、それはいろいろな試練、困難、病気、失望、失敗、損害、不成功など、人生には避けられない、数々の出来事を意味しております。また老いること、そして最後に「死」という洪水が確実にやってきます。死という強力な事実こそ、私たちの人生の土台について、深くテストするものはありません。たとえ、どんなすばらしい能力、才能、賜物がなんであれ、またその人柄が優れ、性格が良く、善良であっても、死は確実にやってきます。その時、この死に対して備えができ、耐えることができなければ、その人は完全な敗北者なのです。 このように私たちの人生においては、目に見えない人生の土台が明るみになる時がきます。主イエスはそれを「洪水」という言葉で話されました。さらにここでは、もう一つ大切なことが言われております。それはその土台が、何の上にあるかということです。岩の上すなわちイエス・キリストという岩、それが大切なのです。私たちの人生が、その信仰が永遠の岩なるイエス・キリストの上にのっていなければ信仰とは、名ばかりの信仰になっていまうのです。このことは、私たちの人生の中で、洪水という試練が押し寄せて来た時に、明らかにされるのです。岩なるイエスの上に立つ家(人生)は、試練をもかえって恵みと変えるのです。そして次のように歌うことができるのです。『風いとはげしく、なみ立つ闇夜も、みもとに鎖を、おろして安らわん。われらのイエスこそ、救いの岩なれ、救いの岩なれ』