礼拝メッセージ

2月20日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「ヨセフとマリヤ」―そこに見る父と母の姿―  ルカの福音書2章51~52節

(Ⅰ)日本語では母親のことを「御袋」と言います。男性が母親をさして呼ぶ言葉です。なんと温かく、ふくよかで、包み込むような大らかさと、どっしりした安定感を与える呼称でしょうか。幼い子どもは自力では生きていけません。自分を守ってくれる「袋」が必要です。つまりお母さんです。そして「袋」が大丈夫ならば、子どもは安心して生きていけます。しかし、母親が精神的に不安定だったり、他のことに気をとられて、子どものことを忘れたり、おろそかにしますと、子どもは「袋」が破れて、自分が落ちてしまうのではないかと、危機感をつのらせ母親の注意をひこうと病気や不登校、拒食、言語障害などいろいろな事態を引き起こします。それでも母親が問題に気付いて「袋」を修復してくれなければ、子どもは落ちて傷つき、ひどい目に遭い、取り返しのつかないことになるのです。それでは母マリヤとイエスとの関係はどうだったのでしょうか。ルカの福音書で描かれた少年イエスと母マリヤについての記述の中で、「母はこれらのことをみな心に留めておいた。」(ルカ2:51)という聖書の言葉が印象的です。神の子としての意識を持ち始めていたイエスの言動は、マリヤには理解出来ないことが多くあったと思われます。このことは子育てにとって何を示しているのでしょうか。それは、子育てというものは子供の全てを親が理解したうえで行っているのではなく、子育ての中心は、親にもわからないその子に対する神のご計画というものがあり、私たちの判断、決断、解釈を差し控えなくてはならないことがあるということを示しております。特に思春期の子どもの場合、表に現れた言動だけでなく、よく考えて落ち着いて「心に留め」見守っていく姿勢が必要です。                                                                                  (Ⅱ)さて母親の「袋」から出て、外の世界、社会へ出て行こうとする時、今度は父親の存在が重要になってきます。父親は女の子にとっては、母親に代わって守ってもらえる異性であり、男の子にとっては社会を学ぶ存在、そして同性のライバルとなります。この点でヨセフは父親としての役割を立派に果たしたと言えましょう。ルカの福音書が描くキリスト誕生物語での「ナザレからベツレヘムへの旅」(ルカ2:1~5)と「マリヤの出産」(ルカ2:6~7)、マタイ福音書の「エジプトへの逃避」(マタイ2:13~15)に見られるヨセフの父親像は、一家の大黒柱として神の計画の中で、神の導きに従いながら家族を支え導く父親の姿であります。このような聖家族の姿を聖書は「イエスはナザレに帰って両親に仕えられた。」(ルカ2:51)「イエスはますます知恵が進み、背たけも大きくなり神と人とに愛された。」(ルカ2:52)という短い言葉でまとめております。ヨセフはイエスに家業の大工仕事を教え、自分の人生経験から学ぶべき良きものをイエスに伝えたことでしょう。そして共に生活する中でヨセフとマリヤからイエスは惜しみない愛を受けつつ育っていかれたのです。                    (Ⅲ)こうしてイエスは、最初にヨセフとマリヤを通して、人間について、家族、家庭について、そして社会について教えられ、知恵を深めていかれたのです。現代は父親がいてもその役割が欠如し、子どもの教育やしつけなどあらゆる点で母親が主役となりながら真の「母性」がおろそかにされている時代です。私たちは、恐れと不安の中を生き抜いて神の使命に捧げたヨセフとマリヤに見る聖家族の在り方から、家族と子育ての在りを学ばなければなりません。


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