礼拝メッセージ

2月2日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「主の愛と恵みの力」                創世記6章1~8節

「あなたは、いったいなんということをしたのか。」堕落後の人間を描く創世記の各章に、通奏低音のように流れる、神の嘆きの言葉です。(創世記3:13 創世記4:10)人間は「神の像」を受け継ぎ、同時に罪を犯す「人間の像」も受け継ぎました。神の祝福の中に命が誕生し、その命は受け継がれ人は増え続けます。けれどもアダム以来の人間の罪の性質もまた受け継がれ広がっていくのです。その状況を6章は「主は地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。」(創世記6:5)と描き、「それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。」(創世記6:6)と記します。6章は「あなたは、いったいなんということをしたのか。」という、この言葉を、神の後悔と心痛として表現します。神さまは人間を見ながら、悲痛な嘆きをあげておられるのです。そしてその都度、人を裁かれます。しかし神の裁きには、必ずその救いが隠されているのです。それがノアを通して具体的に示されていくのです。そしてその救いは、イエス・キリストが十字架にかかり、殺されるという姿において、私たちに与えられたのです。それは、心に思い計ることが非常に悪いことばかりの、人間の罪に対する裁きを、主イエスが身代わりになって受けられたことを意味します。しかも「わが神、わが神なぜわたしをお見捨てになったのですか。」(マタイ27:46)と叫ばれた言葉にあるように、主イエスは、神に見捨てられたのです。罪なき神のひとり子が神に捨てられたのです。見捨てられる罪人の罪が赦されるためです。その時、「あなたは、いったいなんということをしたのか。」という言葉は「神よあなたはいったいなんということをされたのですか。」という、神への驚きと感謝の言葉となって変えられていくのです。


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