2月16日礼拝メッセージ要旨 朴柱炫(ぱくちゅうひょん)先生
「証人」 マタイの福音書16章24~27節
ある日、イエス様は弟子たちに「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」。と十字架の道とご自身に従う者にもその道があることを教え始めました。弟子達はイエス様の力による奇跡と働きを見て、これから新しい時代が来ると思い、自分たちの人生にもすばらしいことが待っていると期待しました。彼らはそんなことなんて夢にも見ていませんでした。 イエス様は私たちの罪のため、十字架で、私たちが、本来受けるべき全ての裁きを受けました。イエス様の十字架によって、私たちは罪から解放され、永遠の命を得るようになったのです。イエス様を主と告白した瞬間、私たちはあの十字架でイエス様と共に死んだのです。昔の自分は死んで、今はイエス様が私たちの内に生きているのです。それを覚えるために自分の十字架を負うのです。 弟子たちは復活のイエス様と出会った後、彼らの生き方は完全に変わりました。弟子達はイエス様を証した理由で多くの苦難と苦しみを受け、命の危険にも沢山会いました。それは人々に「自分の罪から悔い改めなさい」と教えることであり、神様の国の到来を宣言する生き方であったからです。人々はそれを喜んで受けることより、むしろ迫害しました。しかし、彼らはそれを恐れることなく喜んで、その道を最後まで走りました。多くの信仰の先輩達や日本もキリシタン時代、多くの人々が 信仰のために命を捨てました。彼らも私たちと同じく命は一つであったのに、なぜでしょうか。それは「肉は滅びますが、永遠に滅びることない神様の国」に対する希望があったからです。この地上の営みが終わると報いを与えて下さる神様に対する信頼があったからです。それが、十字架の道です。その十字架の道の終わりにはイエス様が待っています。イエス様は優しい声で、私たちにこう言ってくださるでしょう。「ご苦労様、よくやった、忠実な僕よ」と。