2月14日(日) 礼拝メッセージ要旨
「悲しむ者」 マタイの福音書5章3-4節
本日の聖書はイエス様の山上の説教の初めに出て来る「幸い」についての中で二つ目です。その4節は次のように言い返すことが出来ます。「何て幸いなんだ。悲しむ者よ。その人は慰められるから」ここでイエス様は「悲しむ者」に対して「何と幸いなんだ」と仰います。このようなイエス様のことばは、普通の私たちの常識では理解し難いものでしょう。この世の考え方では、悲しむ者は幸いどころか、むしろ不幸な者です。
それでは「悲しむ者」とは、どういう意味でしょうか。それは神様の御前での自分の霊的状態を知り、その姿を悲しむ人のことです。私たちは神様の計り知れない恵みと愛を頂いている者です。そのような私たちが、神様に対して神様の民として相応しくない自分の姿を知るようになった時、私たちは悲しむと思います。神様の大いなる恵みを愛の中にいる自分が、その御前において生きて行く姿を振り替えて見た時、その罪深い姿を知って悲しむことです。ですから「悲しむ」ということは、「心の貧しい」ことから必然的に来るものです。神様の聖さを知り、そのような姿を私たちにも求めておられますが、それに対して貧しい自分の姿を見る時、その人は悲しむのです。そのような自分の弱さをパウロはローマ7章18節で「私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。」と語り、その心境を7章24節では「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」と言っています。
そのように自分の罪深さや弱さを知って悲しむ者に対してイエス様は「幸いな者です」と仰って下さいます。それは、その悲しみは決して悪いことではないということでしょう。私たちが自分の弱さを知った時、そのまま悲しんで良いと言うことです。何故なら、そのような人は慰められるからです。神様は自分の弱さによって悲しむご自分の民を責められるお方ではありません。限りない愛をもって私たちを顧みて下さり慰めて下さる神様を覚えたいと思います。