礼拝メッセージ

2月13日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「悔い改めの実」              ルカの福音書3章1~14節

ルカ福音書の主題は、『あらゆる人が神の救いを見るようになり』(ルカ3:6)喜びのなかに神に立ち帰ることにあります。そのためにはキリストを迎える心の準備が必要です。その働きのためにバプテスマのヨハネの存在があります。福音書の作者ルカはどこまでもこのヨハネにこだわり続けます。         キリストの誕生物語では、キリスト誕生の前に、バプテスマのヨハネの誕生物語を詳細に描きます。(ルカ1:5~80)それからキリスト誕生物語と続くのです。それはキリストの公生涯の物語においても同じ筆遣いとなります。まずバプテスマのヨハネの使命、その働きを紹介し、その後にキリストのことを書き出します。なぜルカはこれほどまでに、バプテスマのヨハネにこだわるのでしょうか。それは主イエスが語られる言葉に私たちを注目させる前に、まずバプテスマのヨハネの語った言葉に私たちを注目させ、キリストを迎える心の準備をさせたかったのです。その語るべき神の言葉が、荒野でバプテスマのヨハネに下ります。しかも、その神の言葉が世界の歴史の中に組み入れられて、「皇帝テベリオの治世の第15年」(ルカ3:1)という書き出しで始まり、救いの出来事が動き出し、進展していくのです。ルカはバプテスマのヨハネを描くにあたって、彼の「洗礼」の行為よりも、語った言葉に焦点を当てております。その中心のメッセージは「悔い改めにふさわしい実を結びなさい。」(ルカ3:8)という言葉です。しかしバプテスマのヨハネの説く悔い改めの説教は、神の裁きを強調するだけのものではありません。ルカはイザヤ書40章からの引用でマタイやマルコの福音書において引用されなかった「こうして、あらゆる人が、神の救いを見るようになる。」(ルカ3:6)をつけ加え、救いの喜びを語っているのです。その喜びに立ち帰るためには、悔い改めの実を結ばなくてはなりません。それには何か特別なことをするというのではなく、今の置かれている生活の場を大切にしながら、そこで他者、隣人と共に生きよとバプテスマのヨハネは語ります。自己中心ではなく、他者中心、さらに神中心の生き方をせよというのです。困っている人がいたら食べ物を分け与える。取税人にしても兵士にしても決して他者を苦しめたり、困らせたり、悲しませてはならず、かえって他者に対する配慮、他者と共に生きる生き方の中に悔い改めの実を見るのだと、バプテスマのヨハネは訴えるのです。(ルカ3:10~14)そして彼は、これらの言葉を遺言のようにして、国主ヘロデに殺され、ルカ3章20節を最後に聖書の舞台から消えていきます。しかし、「神のことばが、荒野でザカリヤの子ヨハネに下った。」(ルカ3:2)というバプテスマのヨハネの活動は、私たちが受け継がなければなりません。何故なら現代社会もあのバプテスマのヨハネが生きた時代と同じ荒野だからです。その荒野に生きる人々に向かって私たちは神のことばを語り、『あらゆる人が神の救いを見るようになる』(ルカ3:6)喜びに立ち帰るように心の準備を訴え、語り続けなければならないのです。 



礼拝メッセージ要旨一覧はこちら