2月12日(日) 礼拝メッセージ要旨
「不信仰な世」 ルカの福音書9章37-45節
本日の本文では、悪霊に取りつかれたひとり息子の父親が出て来ます。その父親は大変苦しんでいる息子を癒して頂きたく、イエス様のところに来ましたがそこにイエス様はおられないで何人かの弟子たちだけがいました。それでその弟子たちに、悪霊を出して下さるようにお願いしましたが、そこにいた弟子たちはそれが出来ませんでした。その時、変貌の山から下りて来られたイエス様は、その父親から事情の説明を聞かれました。そして、イエス様は深い溜め息をつかれながら「不信仰な、曲がった今の世だ。」と仰いました。
この時の「不信仰な世」、それは決して神様を知らないこの世だけのことではありません。その対象はイエス様の弟子たち、イエス様のところに切実な願いをもって出て来た父親、そして律法学者たちであって、彼らの不信仰の姿に悲しんでがっかりされて溜め息をつかれたのです。この時、弟子たちは神様からの力を、まるで自分のもののように使おうとしました。また、父親はイエス様に対して疑いの思いをもって願っていました。そして律法学者たちは神様のみことばを解釈するのに曲がった理解をもっていました。そんなところか、神であられるキリストを目の前にしながらもそれが分からずそのお方を殺そうとしていたのです。そのように其々不信仰な姿をもっていました。そういう彼らの姿、またイエス様を囲んでいる大勢の群衆もただの好奇心でイエス様を見ていることから「ああ、不信仰な、曲がった今の世だ。」と仰った事だと思います。
そう言われている中で、私たちの信仰はどうでしょうか。私たちは神様のみこころを正しく悟り、何の疑いもなく、それが自分を通してなされることを信じているでしょうか。それとも、ただ信仰という言葉で、自分の願いがかなわれたり問題が解決されたりすることなどを願っているだけでしょうか。イエス様は光り輝く栄光の姿であれ、十字架の惨めな姿であれ、ただ神様のみこころがご自分を通して成し遂げられることだけを願っておられました。そのようなイエス様に学んでただ神様を信頼し、神様の力を仰ぎ見て歩んで行く者になりたいと思います。