2月12日(日) 礼拝メッセージ要旨
「他者を生かす眼差し」 ルカの福音書6章39~42節
「考えてみると、既に自分たちは日々、人々を裁き、また裁き合っている。朝起きた時から夜に至るまで、いや夢の中でさえ、自分は人を裁き、人を責め人を怒っている。」三浦綾子の小説「裁きの家」で、主人公が語っている言葉の一節です。人は自分の罪を計る物差しと人の罪を計る物差しと二つの計りを持っています。そしてこの二つの計りを自分の都合に合わせて使い分け、人を責め、人を裁いているのです。この問題は主イエスも大切なこととして、『目にある梁』と『目のちり』にたとえて取り上げておられます。(ルカ6:41~42)私たちはこの主イエスの言葉を表面上のことだけを考えて、次のように理解します。―これは私たちが他人のことを、とやかく言う資格のある人間ではないということを言っておられるのだ。人間というものは、皆完全無欠ではなく、どこかに欠点がある。その欠点に気付いたら、人の欠点ばかりあげつらっているわけにはいかない。だから他人の目にある『ちり』について、お節介をやくな。自分の目にも『ちり』があるではないか。お互い五十歩百歩ではないか。他人も自分も同じ間違いをしているだけではないか。―と私たちの知恵が語ろうとしているのは、こんなことではないでしょうか。しかし主イエスが、ここで用いられているたとえは違うのです。『ちり』と『梁』で、しかも他人の目には『ちり』であり、あなたの目には、それよりもさらに大きい『梁』がある。それで人を裁く資格があるかと、問われるのです。私たちは実は自分の物差しだけでは、自分の目の中である『梁』を見つけることは出来ないのです。神の目で見つめられ、その光に照らされた時だけ、自分の目にある大きな『梁』に気付かされるのです。従ってこの『梁』を、私たちの神のみ前における『罪』と言いかえることができます。その罪の重さは、主イエスが十字架につけられる程のものであります。したがって、この『梁』の大きさが、あの主イエスの十字架の苦しみの大きさであったのだとはじめてわかるのです。あの主イエスの苦しみ、死の痛み、死の深さは、それだけ私たちの大きな『梁』(罪)を負われていたからです。この大きな罪に気付かないままに、人の目にある『ちり』を気にして、裁くことは間違っているのです。このように他人の目にある『ちり』(罪)を本当に正しく見てとり、見極めるために、愛の視力が必要なのです。そのために自分の目の『梁』(罪)が取り除けられなければならないのです。私たちの眼は他者を生かす眼差しであり、共に生きる人々の罪を正しく見定め、その罪のゆるしの実現のために祈り、神のゆるしの眼差しの中に立つように招くものでなければならないのです。ようするに、主イエスがここで最も大切な教えとして語っておられることは、神のみ前にあって、私たちが、他人をどのように見つめ、どのように振舞っているかということなのです。