12月9日(日) 礼拝メッセージ要旨
「自分を低くして―キリスト者の自己訓練」 ルカの福音書9章43~48節
「人の子は、いまに人々の手に渡されます。」(ルカ9:44)と主イエスは言われす。ご自身の受難の歩みを語られた二度目の言葉です。最初の時(ルカ9:22)には、主イエスは、ご自身の受難について具体的に話されました。しかし今、弟子たちはそれらの言葉の意味するところが何であるのか理解できていなかったのです。そこで弟子たちは主イエスに尋ねて、そのことを、もっと深く理解しようとしませんでした。それは「苦しみを受け、……捨てられ殺され」(ルカ9:22)ていく主イエスに対して、弟子としての自分たちに何ができるのか、何をすべきなのか、何をしたいのかを考えたくなかったからです。この時から主イエスと弟子たちの間には、気持ちのうえでずれが生じ、弟子たちの心は主イエスから離れ始めているのです。その事が表面化したのが、だれが一番偉いかという、弟子たちの議論でした。この時主イエスは、エルサレムへの最後の旅を覚悟されておりました。その主イエスの思いに背を向けるようにして、誰が一番偉いのかと議論している弟子たちの心を見抜かれて、ひとりの子どもを自分のそばに立たせ、弟子たちに語られます。小さい存在、無価値な存在である小さな子どもを、あたかも主イエス・キリストご本人であるかのように迎え入れ、仲間に加えることは、実はイエスご自身をおもてなししていることであり、それは神さまそのお方をおもてなしすることであると主イエスは言われるのです。それには、あなた自身が誰よりも自分を低きところに置いて、主に仕え、人に仕えなければならないのです。そしてその姿こそ、主イエスご自身の姿そのものでした。神のひとり子としての主イエスは、人となられて低きに下り、救い主として罪深き、小さな価値のない私たちを受け入れて下さり、神の子として下さいました。小さい私たちが大いなる者とされたのです。待降節を迎え、主イエスへ思いを集中しながら、主イエスがどのような歩みをたどられるのかということを、私たちが正しく知ることなしには、主イエスに従うことについても、いかに歩むべきかということについても、弟子たちのような間違いや、混乱を起こしかねないということを覚えたいのです。