礼拝メッセージ

12月8日 (待降節第二週) 礼拝メッセージ要旨

 

「主を迎える用意」              ルカの福音書12章35~48節

日野原重明先生の著書「死をどう生きたか」の中に、若くして癌に倒れた婦人のお話が記されております。彼女はキリスト者でしたが、苦しみ、悩み、泣き、日野原医師に「いったい私の体はいつまでもつのか。」と訴え問いかけるのです。その時、日野原先生がその婦人に読んで聞かせられた聖書の箇所が、本日、私どもに与えらております聖書の箇所でルカ12章33~40節の御言葉、特に40節「汝らも備えをれ、人の子は思わぬ時に来ればなり。」でした。医師として死期を明確に告げる事は出来ません。それを告げたとしても、患者にとって慰めになるわけではありません。それよりも同じキリスト者としての信仰をもつ日野原先生は、患者に「死を迎える用意」ではなくて、「主を迎える用意」をしようと告げるのです。「死」と「主」は、言葉の発音は紛らわしく、似通ったところがありますが、事柄は全く違います。「いつも主を迎える用意」をしていたら良い。これは深い慰めの言葉です。主イエスはこの箇所で三つのたとえ話を語っておられますが、これらのたとえ話に共通していることは、「主人を待つ」ということです。待つ人は受け身です。信仰もそうです。そこで肝心なもの、それは主人です。私どもの主人は、イエス・キリストです。その主人が来るのを待っています。いつでも主がこられたら、戸を開け、明りを揚げることが出来るように待っています。信仰生活の大部分は待望です。ブルームハルトは、いつも人のまだ乗ったことのない4頭立ての馬車を庭に用意していたそうです。誰かが不思議に思って、何のためかと聞くと、「自分はイエス・キリストが再臨なさる時、一番最初にお迎えに行けるように、こうしていつも用意しているのだ。」と答えたそうです。この待望、この信頼こそ真の信仰なのです。私どもも、この待降節を迎える中で、私どもの心の庭に4頭立ての馬車を用意して、主イエスを待ち望む喜びと希望にしっかりと立って進みましょう。

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