12月4日(日) 礼拝メッセージ要旨
「誉れの冠を受ける者」 ルカの福音書6章22~23節
「人の子のために、人々があなたがたを憎むとき、また、あなたがたを除名し、はずかしめ、あなたがたの名をあしざまにけなすとき、あなたがたは幸いです。」今この主イエスの言葉を聞いて、「そうです。私こそキリストのために迫害されてきた者です。」と断言し、立ち上がる人はいるでしょうか。先の第二次世界戦争において、神の言葉に真実に生きようとしたキリスト者は文字通り、命を落とし、あるいは命がけでこの時代を生きてきました。しかし、私たちは今、迫害のない、殉教者のない教会として存続できる時代に生かされております。主イエスのこの言葉は、主ご自身が憎まれ、はずかしめられ、苦しめられて、やがて殺されるというご自分の身におこるであろうことを受けて、弟子たちに語られた言葉です。教会の長い歴史においては、さまざまな時代に迫害の時期がありました。一見平和と安全の中にいる私たちが、火のような試練と苦難と迫害の中に投げ込まれる時が来るかも知れません。今この時にも、世界のどこかで実際に激しい迫害を受けているキリスト者の群れがいるのです。だから私たちは、主イエスの幸福の使信の意味するところを正確に理解し、その時のための備えをしなければならないのです。では主イエスの幸福の使信は私たちに何を語ろうとしているのでしょうか。パウロは「キリスト・イエスにあって信心深く生きようとする者は、みな迫害を受ける。」(第二テモテ3:12)と語りました。それなら何故キリストを信じる者は、このような迫害に会うのでしょうか。それは『キリスト者は人と違ったところがある』からです。パリサイ人や律法学者が主イエスと接した時、自分たちの聖さ、義しさがことごとく安っぽくされていくのを感じたからです。キリストとの決定的な違いを知らされたのです。彼らはみじめな気持になり、罪の宣告を受けたような思いにさせられ、まさに主の徹底した絶対的な聖さと義のゆえに主イエスを憎んだのです。以上のことからこの幸福の使信は、私たちに対してキリスト者とは何かということについて語っているのです。この世は私たちがキリストのまねをしようとするだけなら賞賛するでしょう。しかしキリストに似た者となるなら、世は私たちを憎むのです。では何故キリスト者はこのような迫害を喜ぶべきなのでしょうか。それは、今受けている迫害こそキリスト者として、自分がどういう者であるのかの証明だからです。私たちがキリストと同じように迫害を受けるなら、それは私たちの生き方が主イエスの生き方と似たものになっているということであり、主のものであることの保証を確実に握っていることを証明するのです。ですからキリスト者はそのことを喜ぶのです。また、それが私たちの行く先についての証明であるからです。「天ではあなたがたの報いは大きいからです。」(ルカ6:23)もし迫害があなたに起こっているなら、それはあなたが天国に行くように定められているという事実の証明なのです。キリスト者とは常に天を仰ぎ見る人でなければならない。私たちはキリストのために、ただ彼を信じることだけでなく、彼のために苦しむことをも賜っている(ピリピ1:29)ことを想起しなければなりません。私たちはこの迫害の故に感謝するのです。なぜなら迫害は「永遠の重い栄光」をあふれるばかりに、私たちに得させて下さるからです。それゆえに「その日には、喜びなさい。おどり上がって喜びなさい。天ではあなたがたの報いは大きいからです。」
hakugai
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