12月2日(日) 礼拝メッセージ要旨
「その木はいかにも好ましかった」 創世記3章1~7節
本日から待降節に入ります。もし創世記3章の物語がないとすれば、この待降節もありません。ですから、この待降節に創世記3章を学ぶことは、とても意義深いことでもあります。創世記は、2章において神の創造の完成があり、3章からは、その完成を破壊する人間の罪の物語が語られます。神と人、人と人、夫婦の関係、家庭、社会、自然が破られてゆく中で、神と人との間にどのようなことがあったのか。その物語が語られていくのです。まず人間の堕落がこの3章の冒頭に描かれます。神は人間を創造された時、「善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」 (創世記2:17)と人に命じられました。この戒めは、人として生きてほしいと願う神の愛と、人はこの戒めを守ってくれるはずだという信頼によるものでした。神は人がこの愛と信頼の交わりの中に生きてほしいと望まれたのです。しかし、それは強制ではありませんでした。人間の自由意思に委ねられたのです。 ここに人は、二つの大切なものを持っていたことが示されております。一つは、いのちに至る神への従順か、あるいは死に至る不従順の道か、そのどちらか一つを選ぶ「自由」があったということです。二つ目は、このどちらか一つを選ぶ「能力」がありました。すなわち彼らは、善悪のどちらでも行う力があったのです。そしてアダムとエバは、へびのたくみな誘惑と説得に従い、聖なる神の命令に背き、正しいことを行う完全な「自由」と「能力」を持っていたのに、罪を犯しました。神への不従順の恐るべき結果について、あらかじめ警告されていましたが、彼らは、神の戒めを破りました。彼らは共に神の前に立つことが出来ない者となったのです。そして神を恐れて、木の陰に身を隠す者となりました。 この物語から私たちが学ぶ大切なことは、人が善悪を確実に知る唯一の道は、神のことばに素直に留まることでした。それも足しても引いても駄目であって、神のことばをそのまま丸ごと受け入れなければならないということです。女は自分の都合のよいように神のことばを変更しました。私たちにとってただ神のことばのみが、サタンの誘惑に勝つことが出来るのです。その神のことばに日々親しみ、その導きに従うこと。つまり主を礼拝しつつ生きること。そのことに集中しつつ、この待降節を迎えたいと思います。