12月12日(日) 礼拝メッセージ要旨
「ただ恵みの確かさに立ちて」 ガラテヤ人への手紙3章2~5節
キリスト教信仰の道は、「あれか」「これか」の世界です。人が救われる道は唯一つです。「律法に聞き従って生きる」道なのか「イエス・キリストを信じて従う」道のどちらかの道でしか人は救われないのです。パウロはユダヤ教徒として、「律法を行う」道を選びました。その生き方が如何に徹底したものであったかは、ピリピ人への手紙3章4~6節のパウロの告白を読めば明白です。そのパウロがダマスコ途上で、復活のキリストに捉えられ、一方的な神の恵みによって回心致します。その結果パウロに見えてきたことがありました。それは神のように聖く、完全でありたいと願い、ひたすら律法を守り、その生き方に徹した方向は、神に向かっているのではなく、まったく反対の方向であったことがわかったのです。さらに、人間の業では、どんなに聖く、義しくあろうと、神の要求を完全に満たすことはできないという、人間の力の限界を悟ったということです。ですから「イエス・キリストを信じる信仰」とユダヤ教の伝統、習慣、常識である「律法の行い」という両方の立場「あれもこれも」受け入れてこそ救いが完成すると考える、ガラテヤ教会の人々の信仰の在り方が、パウロにとっては耐え難いことでした。なぜ「信仰のみ」「ただ神の恵み」という福音をもって信仰の出発点としたのに、今になって律法の行いを強調して、御霊の働きで始まった救いが、人間の業によって完成されなければならないのか!ここにガラテヤ人の愚かさを嘆き、福音の本質に戻って欲しいと願うパウロの叫びを聴き取ることができます。ではなぜ私どもはこのような律法主義の罪に落ち入るのか?それは「私の信仰は私が守っていく」という、何か自分で手応えを感じる生き方がより人間らしい信仰の姿勢だと思うからです。しかしパウロはまさに『この点』で私どもの罪深さが現れるのだと言います。そうではなく、神の恵みにすべてを委ねて『全くそこにおいて生きる』こと。その時、人は本来のあるべき人間になるのです。誰よりも徹底して人間の弱さを知り尽くしたパウロの言葉だからこそ、その思いを私どもはしっかりと受け止め、ただ「信仰のみ」という唯一の道を歩みたいのです。