12月11日(日) 礼拝メッセージ要旨
「王なるイエスよ 私たちの心に」 マタイの福音書2章1~21節
「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」(マタイ2:2)東方の博士たちが告げる新しいユダヤ人の王の誕生というこの言葉は、ヘロデに深刻な動揺を与えました。「私がユダヤ人の王なのだ。そうだ!私だけがユダヤ人の王なのだ。他の人間がユダヤ人の王であるわけがない。そんなことはあってはならない。」自分にそう言い聞かせたヘロデは、ベツレヘムとその近辺の2才以下の男の子をひとり残らず殺させました。 聖書が描くクリスマス物語には明るさと暗さがあります。その暗闇の部分がもっとも色濃く描かれているのが、ヘロデの幼児虐殺の場面です。彼はユダヤ人の王としての地位を保つために、自分を脅かす人間、あるいは少しでもその気配のある人間を、冷酷な仕打ちで容赦なく抹殺しました。妻や子供、親族、側近者たちを殺しました。しかしヘロデは決して例外的な人物というのではありません。私どもの中にもヘロデ的なもの、内なるヘロデがあるのです。「私の願望」「私の立場」「私の価値観」「私のわく組」などにとらわれ、自分の世界で自分の思う通りの生き方に力を注ぎ、ヘロデのようにその立場を貫き通そうとするのです。おそらくヘロデは自分が人々から信頼され、自分の血族皆に愛され、受け入れられていたらどんなに幸せであろうかと、心の中でいつも憧れていたに違いないのです。その意味でこのクリスマスは、私どもの中に根深くしみついているヘロデ的なものを、これからもずっと抱きかかえたまま生きるのか、それとも生き方を変えて、新たな歩みへと導いて下さる、主イエスの名を呼び求めつつ生きていくのか、私どもの決断を求める出来事なのです。ヘロデはこうして「イエスを殺したい。」と言う願いを持ちながら、それを果たすことなく死にました。しかし、ヘロデの起こしたあの事件で犠牲となったのが、ベツレヘムとその近辺の2才以下の男の子たちでした。強大な権力を持つヘロデが、無防備で無力な子どもたちを殺したのです。このベツレヘムの幼児虐殺はやがて、キリストの十字架の死をもって結末を迎えます。あの殺された子どもたちの死は、キリストの死を告げ知らせ、その証人になったのです。このキリストの死において「ユダヤ人の王」という言葉は、もう一度重要な意味をもってマタイの福音書27章に登場します。キリストがローマ総督ポンテオピラトによって裁かれる場面でピラトは問います。「あなたがユダヤ人の王であるのか。」と。主イエスは答えました「その通りである。」と。ピラトはイエスの処刑を決断し、ローマ兵士に引き渡します。しかしそうすることによって、彼ら自身の思いを越えて聖書は、まことの「ユダヤ人の王」とは、辱められる王であり、見捨てられる王であり、殺されていく王であることを明らかに告げているのです。この王は自分が生き延びるために人を殺すことはありませんでした。人を救うために自分が殺され、自分の命を捨てました。その事によってあらゆる時代を越えて、嘆き悲しみ、虐げられ見捨てられ、苦しみ痛みの中にある人々と共に在ることが出来る王なのです。ですからクリスマスを迎えて、私どもは次のように歌うことができるのです。 夜の闇が地をおおい 月明かりしか見えなくても 私は恐れない あなたが私の側にいてくださる限り