11月4日(日) 礼拝メッセージ要旨
「共に一つの体として」 創世記2章24~25節
夕日が沈む野原を散策していたイサクは、ふと目を上げて遠くを見ると、らくだに乗って近づいてくる女性の姿が目に入ります。一方見知らぬ地で自分を待っている人がいるというその期待と不安を抱きながら、長い旅を続けて来たリベカも、目を上げると一人の男の姿がそこにあり、その男は野原を歩いて自分の方に近づいて来ました。創世記24章が描くイサクとリベカの出会いの光景です。それは青年期を迎えた人間が、父母のもとを離れ、結婚し家庭を持つという仕方で、どのように自立の道を歩み始めたかという愛の物語でもあるのです。その男女の結婚について最初に記されている箇所が、本日の創世記2章24節なのです。ここでは結婚に関して重要な原則が述べられております。第一に結婚は神が定めた制度であります。第二に男と女とは、お互いのために造られました。第三に結婚とは「父母を離れる」ということであります。男と女は父母の許を離れ、独立自由に生きる者になります。真の独立した人間になるのです。では、結婚の意味とは何でしょうか。それは、「ふたりは一体となるのである。」(創世記2:24)ということです。この箇所を直訳しますと、「一つの肉になる。」となります。ふたりの個人はお互いの分身なのです。夫が妻を愛する場合、夫は決して自分以外の人を愛しているのではなく、彼は自分の一部を愛しているのです。妻も同じです。しかしこの一つになるということは、結婚さえすればひとりでに出来上がっていくというものではありません。「一体になる」とは、この時、アダムとエバにおいて実現し、完成したのではなく、今後実現していかねばならない私たちの課題なのです。そして真に「一体となる」という関係は、イエス・キリストによって完成されると聖書は教えております。新約聖書の中で「一つの体」という言葉は、全てキリストとの結びつきの中に出てくるのです。「私たちもキリストにあって一つのからだであり、ひとりひとりは互いに器官なのです。」(ローマ12:5)とありますように、私たちひとりひとりが、キリストに結ばれることによって、「一つの体」なる教会を形成しているのです。また、「私たちはみな、一つからだになるように、一つの御霊によってバプテスマを受け」(第一コリント12:13)「一つの体」とされて、共に聖餐式においてキリストの杯とパンにあずかることによって「一つの体」であることを確認するのです。ですから私たちは一人一人ばらばらに悔い改めて、罪の赦しに与って家に帰るのではありません。また、これからの一週間をそれぞれがお互いのことを思いやり、心配し、祈りつつ「一つの体」として生きるのです。そしてまた、この礼拝に集められ、「一つの体」として共に生きることの喜びを分かち合うのです。