礼拝メッセージ

11月21日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「福音の出発点に戻る」          ガラテヤ人への手紙3章1節

ガラテヤ書三章から四章は、教理的内容が扱われており、最も重要な部分であります。その冒頭の言葉が「ああ愚かなガラテヤ人。」とは、何と激しく、強い言葉でしょうか!「ああ物分かりの悪い。」「ああ何という分からずやなのでしょう。」「馬鹿な人たち。」等に訳すことも出来る言葉で呼びかけられているのです。常識的に考えても牧会者、伝道者が教会の人たちに向かって言うべき言葉ではありません。なぜこのような過激な言葉が出るのでしょうか。それは十字架の福音を鮮明に語り、教えてきたのに、その十字架が骨抜きにされ、キリストの死が無駄にされてしまうような信仰に、なぜ流されてしまうのか。誰が惑わせたのか。パウロはそのことに苛立ちを覚えているからです。しかしこの「愚かな」という言葉は単なる非難、批判、追及のための言葉ではありません。パウロはガラテヤ教会の人たちを突き放すことが出来ないのです。ガラテヤ教会を愛するがゆえに、彼らの信仰の間違いを何とか解らせてあげたいのです。ある人が言ったようにまさに「愛するゆえの爆発的な呼びかけ」なのです。パウロにとって福音とは、十字架につけられたイエス・キリストのことであり、その十字架の赦し、その愛の恵みこそ福音そのものでした。だからこそ、それに人間的な余計なものが附加されることは断じて許してはならないことでした。福音は何かをなすようにとの招きではなく、神がして下さったことの宣言なのです。ですから、十字架の福音を語る時には、実にこの罪人の頭なるパウロが、このように変えられたという事実を全身全霊をもって語るのです。そして、そのことはガラテヤ教会だけでなく、同じ信仰に生きる私たちに対しても「福音の原点に立つこと。」「福音の出発点に戻る。」ようにと説得するのです。それがあの冒頭の激しい言葉に込められているパウロの真意なのです。

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