礼拝メッセージ

11月20日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「神への飢え渇き」               ルカの福音書6章21節

「飢え」という言葉は、動物や人間の本能に深くかかわる言葉です。しかもその「飢え」は絶えず生と死の境界線上において展開され、繰り返されていきます。NHKテレビの「地球いきもの紀行」の飢えたライオンが獲物を追う映像、ついに捉えられて食い殺されていく動物の映像が連想されます。このように「飢え」はもともと激しいものであり、キリストはそのような激しい内容と調子をもつ言葉をここで使っておられるのです。預言者イザヤがシオンの回復を預言して「彼らは飢えることなく、渇くこともない。」(イザヤ49:10)と預言した言葉が今キリストにあって実現したのです。問題は何に対してそのような激しい飢えを覚えているかを問われております。もしそれが腹を満たすものだけであるならば、動物と同じようにまた私たちは飢えるのです。キリストがここで語っておられるのは、たとえ満腹しても必ず空腹になるような朽ちる食物ではなく、「いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物」(ヨハネ6:27)への飢え渇きであります。ですからそれは「神への飢え渇き」であり、その第一の求めが、罪から解放されたいという願いであります。何故なら罪は私たちを神から引き離すからです。神との正しい、平和な関係の回復こそ、私たちの切なる願いなのであります。第二の求めは、聖くなりたいという願いであります。私たちは究極においては主イエス・キリストご自身のようになりたいと願います。そのような人には「あなたがたは、やがて飽くことができます。」と約束されております。それは第一にキリストの義において与えられている完全な罪の赦しの喜びからくる深い満足であります。第二にそれは、終末におけるキリストに在る者が、このからだが造り変えられ、完全な新しい人となり、神の御前に立つ日の喜びからくる満足です。これが神への飢え渇く人々すべてに対する神からの栄光に満ちた恵み深い約束であります。この満ち足りた約束に預かるために私たちはホセアのように「私たちは主を知ろう、せつに主を知ることを求めよう。」(ホセア6:3)と求め、詩編42篇の詩人のように「わが魂はかわいているように神を慕い、いける神を慕う。」(詩編42:1~2)とその必要を深く自覚することです。それゆえにキリスト者とは飢え渇いていると同時に満たされている人といえます。そして「主イエスこそ、わが望み、わがあこがれ、わが歌」と歌い、「主イエスこそわが喜び、わが主、わがすべて」と讃美の声を高く上げる者なのです。


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